ロバート・クロネンバーグの『動く家』

imagon2006-01-29












「家」の客体性は「住む」という客観性に連続している。連続性を支えているひとつは住所という記号である。住所、または住民基本台帳に帰属性をもつそれ――家は、その内側に住まうヒトを即時的に固定化する。「ホームレス」と名指されるヒトもまた、大なり小なり、帰属性を求めている。そこには「住む」という能動的なアクション(行為)が自らのうちに要請されなければならず、要請は外部化、つまり「住んでいる」という事実を外に認識させた時に、自律したものとして生まれ変わる。この外側からの許容−認可が帰属性を帰属性たらしめる。―――本日、2006年1月28日付のwww上のニュースソースに以下のようなアーティクルがあった。


大阪市北区扇町公園にテントを設置し、生活をする無職山内勇志さん(55)が、同公園を住所とする転居届が受理されなかったのは不当として、同市北区長を相手に、不受理処分の取り消しを求めた訴訟の判決が27日、大阪地裁であった。西川知一郎裁判長は「テントは客観的に生活の本拠としての実体を備えており、住民基本台帳法上の住所」として、不受理処分を取り消した。公園での住民登録を認める判決は極めて異例。

司法側は山内さんが公園に「住む」「住んでいた」という事実を実体として認め、その客観性をして、山内さんの住んでいる「扇町公園」を住所として指定するという判決である。住所として認定され、国家に帰属すること、その帰属の背景には、幾多の行政上の手続きで必要な「自己証明」、つまり国民健康保険の交付やパスポートの交付や、参政権の確保という理由があった。それにしても、2004年3月の法廷では、山内さんが同公園を新住所とする転居届を出した際、大阪市北区長は「公共の公園に私的な工作物を設置しており、住所とは認められない」として不受理していたのだから、行政側、司法側にいかなる態度の変更があったのだろうか、と深読みせざるをえない。いたって単純に考えて「住み続ける」という事が住所の認可に繋がったのだろうか?(ちなみに山内さんは1998年から扇町公園に住んでいた)




さて、ぼくがこの記事に興味をもったのは、最近たまたま『動く家―ポータブル・ビルディングの歴史』(ロバート・クロネンバーグ 1995/邦訳出版2000 鹿島出版会)を読んでいたからだった。この書物は優れている。そして、この分野の研究価値の重要性を初歩的に教えてくれるばかりか、「建築一般」に対する興味をも促してくれる。―――古代北アメリカのノマド(少数遊牧民族)が使用していた「ティピ」(テントの原型・・ちなみにティピの建造はすべて女性が担当していたらしい)の組み立てプロセスから、軍事用の「ポータブルハウス(シェルター)」の分析や、バッキー・フラーの「ジオテック・ドーム」の有効性、ロン・ヘロン(アーキグラム)の「ウォーキング・シティー」の先見性などがわかりやすく紹介されており、図版も多彩で視覚的にも十分楽しめる本である。(なによりもこういった「身軽さ・・ポータビリティー」にぼくは「おかしみ―笑い」を感じてしまうのだが)。筆者が言うように「ポータブル(モバイル)・ビルディング(ハウス)」は恒久的な建築にとって変わることができないし、建築史においてはマージナルな存在であろう。だが、このジャンルは、建築素人を「建築理論って難解だな」と思わせる文献(例えば歴史上初発といわれている建築理論『ウィトルーウィルスの建築理論』はぼくには難解である)がもよおすような「建築アレルギー」を一掃してくれるに違いない。





ポータブル・ハウス(キャンピング・カーではない)に未来永劫住めるようになったとすれば、近代的な制度としての「住民登録」はどうなるのだろうか?という素朴にして深遠な問いとともに、「扇町公園を住所として認可させてしまったホームレス」の法的範例(パラディグマ)の実際上のフレームが今後どう展開してゆくのだろうか?ということを考えただけでも、ぼくはワクワクする♪





<付記>
右上の写真は直径4、26mのGRP製イグロー、アルバータ州カルガリー(1967)、コーホス+デ・ラサール+エバニ。(移動中なのだろうか?)