新・映画ノート 1 ⚫2017・12





以下は2017年12月内にtwitterにおいて散発的に記述したメモの再録である。誤字脱字、その場のノリ、思いつきで書いたもの、も含めてそのままに再録しておく。なお、観賞作品が前後している箇所があるので注意されたい。


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午前中、鑑賞。緋牡丹博徒 鉄火場列伝(1969)。笠原和夫+鈴木則文のシナリオ。前半見せた小作争議のネタはどこへ?逸脱に逸脱を重ねて尺合わせ?…結果盛り込みすぎの感。東映京都のセット撮影もキッチュすぎ。丁寧なカット割りのわりには筋運びの面白さはなし。まーまーこんなものか。



また東映もん。河内のオッサンの唄 (1976 )を途中まで。先行するのはミス花子の同名ヒット曲で河内弁の二人称「ワレ」を全国的に知らしめた。(しかも地元市民団体から抗議)。のっけからフルスロットル展開で中でもラッタッタ(初期原チャリ)に跨いだ夏純子のロングショットがグッときたり。




そしてミヤコ蝶々が六升という大酒飲みの役で出てくるんやけど、この人の声を聴いてるとなぜかホっとする。佇まいがいいのよね。



ある安定した場所に第三者が割り込む。そこで発せられる「お前は誰だ?」。しかし問題となっているのはたんなる身元証明(お竜さんだと矢野家直属という帰属性)ではない。



もっと曖昧でしかももっと直接的な表現「お前は渡世人か、それとも堅気か?」という問いなのだ。「お竜さん」には渡世人か、堅気か?堅気か?渡世人か?という問いが頻繁に出てくる。
しかももっと重要なのは「オレは堅気に戻った……だが……」という後悔の形式であり、その次にやってくる情動、「……渡世人の血が騒ぐ……」なのである。





この(実は込み入った情動としての)「……だが、渡世人の血が騒ぐ……」こそが物語を駆動させる中心的なモーターとなっているのであり、この《だが》がとても重要なのだ。映像、音響、つまり映画全体もこの《だが》をめぐって組織化されていると言ってよい。




よくあることだ。オレは先生になった……だが……。オレは日刊ゲンダイを読み続けている……だが……。私は新しいコートを買って初詣に備えるべきだ……だけど……。etc etc。



構造主義的代入性。または形式的シナリオの量産作法。オレは先生になった……だが、渡世人の血が騒ぐ。オレは日刊ゲンダイを読み続けている……だが、渡世人の血が騒ぐ。私はコートを購入して初詣に備えるべきだ……だけど渡世人の血が騒ぐ。etcetc