相米慎二の記憶



■ 相米慎二の記憶



1992年の気の狂いそうな夏の地獄。8月16日、これまた気の狂いそうな夏のイベントが京都であった。大文字。暑い夏の最中にわざわざ薪に火を燃やし、暑さを熱さによって倍化させる。お盆の儀式である五山の送り火、それを今風にいう「ランドスケープアート」として観賞もできるだろう。撮影第二班か三班のわれわれは銀閣寺の門前に入り、機材を腕に背に掲げ、山を昇った。撮影のためだ。地元の二見薫という映画監督(『ドドンパ娘、川を渡る』という彼の16ミリの映画があった)と二人で、ポジションを決めて、ハレーションを切ったりしていた。間近で見る大文字の火のアップ。



これは二日目か三日目のことで、初日は、京都造形大から数100メートル南下し、白川通りを少し西に入ったところにある教会に行った。教会が相米組のスタッフルームとして選ばれていたのだ。食事の支度をしていたのか、なにをしていたのかはっきりと覚えていないので、たいしたことはしていないのだろう。粛然とした部屋の中は決して騒がしくはなかった。ここで相米慎二を始めて見た。




つづけて太秦にある京都撮影所。プレハブの中で、短冊状にした折り紙を丸めていた。折り紙はラストシーン近くの琵琶湖に浮かぶ船の飾り物だということが、あとで映画を見てわかった。




つづけて、街中の鉾町にある小学校のグラウンド。ここに出向いたことは覚えているが、何をしたのかさっぱり思い出せない。なにもしていないと思う。



つづけて、滋賀県瀬田川辺り。桜田淳子中井貴一を見た。桜田淳子はテレビで見るよりもキレイだった。ここでも何をやっていたのか、思い出せない。交通整理とか、そういうことをやっていたのだろうか。ただ、照明部の方と、少し喋っていたのを覚えている。どうやら照明部は、撮影クルーの中でも、下っ端なようで、上からひどい扱いを受けている、と、そんな愚痴をダラダラと話していた。面白そうに聞いていた。電気をつめこんだジェネレーターという大型車から電気を引いてきて、巨大な照明機材に接続する、という過程に少しの時間手伝いをしていたのだろう。瀬田川の対岸から、照明を焚き付け、水面に反射させる、という虚構美のための仕事だ。この現場ではクレーンショットもあった。実際の祭りのシーンを背景に撮影する、ということで、群集がたくさんいた。食事はケータリングだった。




つづけて、京都市東大路五条から東に入る大谷墓地。ここは京都でもかなり壮大な景観を持つ墓地で、昼間の閑時に行くと、ほとんどシュルレアリスティックだといってもいいくらいだ。(そういう意味で東京では世田谷区にある砧公園がいちばんシュル。)むかし応仁の乱や保元平治の乱の死者がどっとこの谷に放り込まれた、という話を何度か聞いた。すこし北上し、六波羅まで行くと、小野小町の弟が祀ってある神社があり、境内には地獄井戸がある。この井戸から大谷墓地まで地獄の道が通っている、という。お盆の大谷墓地は、夜でも参拝できるように、ボンボリが各所に据え付けられ、とてもイルージョナルで、美しい。夜に、主演である小学生の田畑智子が墓碑のあいだをくぐって歩いてくる。それだけのショットだったが、撮影は半日がかりだった。この日が最終日だった。




何日か手伝ったのは『お引っ越し』という作品。日当で7000円か8000円。相米監督作品では、『翔んだカップル』『セーラー服と機関銃』『台風クラブ』あたりが通りのいい映画だと思うが、『お引っ越し』の次の『夏の庭』が個人的に好きな映画だ。夏目雅子が出ている『魚影の群れ』もいいけど。



髭をたくわえた相米慎二は、ずっとツバの広い麦わら帽をかむっていて、長い杖みたいなものを始終離さず、それで、子役たちをこずきながら演出していたように思う。



試写は、京都駅裏にあるアバンティホールで行われた。仕事先の映画館でも映写したが、大巻きの1巻目と2巻目をリレーするポイント、つまり映画の中盤に、大谷墓地を遠景で収めた無人ショットがあり、どうも、そこだけ浮いているように見えた。なんの機会だったか、「あそこ、いらないんじゃないすかねー。」と、批評家、詩人の稲川方人に告げたら、「いや、あそこは絶対にいる。」ということだった。山登りして撮った大文字のアップのシーンはカットされていた。いい経験だった。ちなみに12月12日から年明け1月6日までパリのシネマテーク・フランセーズ相米監督の特集上映が組まれている。



http://lyon-japon.bentobox.jp/?p=8061

↓『お引越し』トレーラー
http://www.youtube.com/watch?v=V4frp0r5jIk