「これ、見る?」という感じで人に軽く薦められて、たまたま『悪魔のようなあいつ』(第一巻と最終巻)を見た。ジュリー(沢田研二)主演、長谷川和彦脚本の1975年に放映されたテレビドラマである。このドラマは1968年に東京都府中市で起きた三億円事件をネタに作られたのだが、三億円事件にまったく関心がないし、社会的な事件を映像化すること興味があるわけではないので、かえってすんなりと見れた。とはいうものの、三億円事件が「小説家の中上健次周辺で起こった」という噂はちらほら聞いていたので、その一点だけは多少気にかかかった。「犯罪を犯す」ことそれ自体がある一定の「意味」として通念化される背景として、階級闘争マルクス)の闘争手段のひとつ、「資本家の息の根を止める」という俗流解釈がある一方で、モーリス・ルブラン原作の『ルパン』シリーズに見られるように、「犯罪のロマンティシズム」が既存のオブセッション(犯罪者自身のオブセッションではなく常民が疎外論的に持つそれ)として、その通念化に寄与していることは否めないだろう。<マルクスー左翼ー国家転覆ー資本家の解体ー犯罪の決行>というロマン主義的な「行動主義」は、当時においては一定の意味があったのかもしれないが、構造主義以降における<マルクスアルチュセールーポストアルチュセール>が要求する「イデオロギー闘争」つまり、単一集団が半ば幻想的に抱える行動主義による「国家転覆」よりも、よりいっそう複雑化した(せざるをえない)主体の審級をこそ問題にすべき時代精神において、この連作テレビドラマを今日、見直すべきだと思われた。(写真は三億円事件犯行現場付近)