アントニオーニの『赤い砂漠』




ミケランジェロ・アントニオーニ監督、モニカ・ヴィッティ主演の『赤い砂漠』(1964)をヴォデオで見直す機会があった(ちなみにDVDは生産中止になっているらしい)。とりたてて主張すべきことはないが、累計して5回は見ているのだからこの映画にはちょっとした思い入れがあるのだろう、そこで簡単な感想をあらためて述べておきたい。





まずは、あらすじを書いておこう。60年代イタリアの都市近郊、というよりもただただ閑散とした土地、ラヴェンナに暴力的に巨大プラント工場が建設され、(労働力そのものである)雇用者やブルーカラーがやってきてはその土地がひとつの国家的な産業的基盤として組み込まれる。雇用者が家族を持っているならば、家族ぐるみで工場の寮に住み込む。新しい生活が始まる。しかし、いつしか妻(モニカ・ヴィッティ)は交通事故にあったあげく、工場の騒音や空気の汚れに苛(さいな)まされ、次第にノイローゼになってゆく。ある日、彼女を夫の友人(リチャード・ハリス)が助けたい、と協力を申し出てくる。妻はその男を含めた数少ない知人たち(その中に笑えるほど野際陽子にそっくりなイタリア人が出てくる)と海辺に行き、ヴァカンスを楽しみつつ猥談に花を咲かせたりするのだが、ノイローゼはますますひどくなる一方だ。ある日、幼稚園通いの子供にもそれが転移したのか、子供は直立して立てなくなる。数日後、妻は自分が反復して見てしまう幻覚のコア(人魚姫のようなお伽話)を子供に話し出す。すると、子供の病気がなおっている。妻と子供は工場の煙突から掃き出される黄色い煙を見ながら次のような会話をする。



子供「あの黄色い煙はなに?」
妻「あれは毒よ。」
子供「じゃあ、鳥があの上を飛んだら、死んでしまうの?」
妻「鳥はあれが毒だって知っているから、あの上は飛ばないわ。」






これだけ読むと「たんに陰鬱な映画」なのだが、多くの映画論者が指摘するようにアントニオーニ監督初のカラー映画(公開当時はカラーのことを総天然色と言った)ということもあってか、色彩構成は凝りに凝っている、その意味で「関係の陰鬱さ(人間関係というモノのどうしようもなさ)を表象するにはどのようにすればいいか」という方法論上の問題を提起していることを、この映画は具体的に示唆している。そして、大胆な色彩構成こそが、内容の陰鬱さをよりいっそう陰鬱にしているとも言える。






通奏低音(通奏高音?)のように断続的にあらわれる「赤」。工場をありのままの工場として撮影するのではなく、随所にどぎつい色(主に赤)を配置することによって、登場人物がその色彩の背景に押しやられ、色彩こそが主人公だと思える地点に至るまで、その主張は迫真してくる、と言えば大げさだが、「人間の弱さ」や「コミュニケーション不全」を徹底して映画的に描く場合に「どぎつい色」を媒介にする(フレーム内の前景に目立つように配慮する)と、より人間の弱さをよりいっそう「弱さ」として描くことができる、というアントニオーニ独自の勝手な主観的発明がふんだんに活かされている。(その証拠に『中国女』の赤はゴダール独自の主観的発明としての「赤」が人間をよりストレートに激化させ、パワーを体現させる媒介色として活かされていたのではないか)






もう一点、同じイタリア映画でもパゾリーニフェリーニ、ベルトリッチの映画においては「性」というモティーフに対して積極的で奔放な姿勢を見せているが当時のアントニオーニの映画においては「性」はより陰鬱で脅迫神経症的な対象だ。20、30年代のアヴァンギャルドを通過した60年代のそれにも、ヨーロッパ社会を支配するキリスト教的(一神教的)なモラルを解体しようとする試みがあったにはあったのだが、アントニオーニの映画においては「抑圧された性を解体するという脅迫」がほとんど感じられない。しかし、思うにアントニオーニは谷崎潤一郎と同質の「脚フェティシスト」であり、『赤い砂漠』でもなんとか女の脚をきれいに撮りたいという欲望が見え見えなショットがいくつかある。複数人で談笑しているシーン(海辺の小屋で猥談に花を咲かせているシーン)をより「白々しく」また「寒々しい」感じで撮っている(そんなにワイワイガヤガヤ騒いでいても、それ自体は空虚なものなんだよというアントニオーニの冷淡な態度を嗅ぎ取ってしまう)シーンでも「みんなで猥談しながらワイワイやる」という行為をクールに外側から捉えているわりには「女の脚のショットだけはなんとかきっちり撮ろう」というホットな意思が見え隠れしているようでならない。(その後、アントニオーニは『ザブリスキー・ポイント』においてアメリカの性科学者ウィルヘルム・ライヒの思想を内在化したような全裸主義者とも言える態度で裸をバンバン撮影している)





以上が累計5回は見ているだろう『赤い砂漠』の簡単な感想である。本当は子供のサイエンティフィックな秀才ぶりについても語りたいのだが、このへんで。