『花腐し』を読みながら




昨晩『れろれろくん』についてのエッセーをアップロードしたあと、「ああ、なんておれはつまらない人生を送っているのだ」と、言いようもない虚脱感に襲われ、何もしないままじっと座っていると、こくん、と眠りそうになったので、このまま寝酒を呑んで一気に寝てしまおうということになり、ウィスキーのソーダ割りを作ってそれを呑みはしたものの、「退屈な本でも読むといっそう豊かな眠りに導かれるのではないか」と、なぜか松浦寿輝の『花腐し』(2000)にはいっている『ひたひたと』をうつらうつらほろ酔いながら布団にもぐり読みはじめてしまった。これはだいぶん前に買ったものだが、途中まで読んで放ったらかしにしていたものだ。・・・読みながら、頭はどこかへ行ってしまう。読みながら、さきほど襲った虚脱感の原因のことを考えていると、「『れろれろくん』のエッセーを書いていた間、終始一人で笑いながら書いていた、ということに尽きる」という「近過去をへめぐる因果の現われ」に、その原因を落ち着かせることとなった。その笑いとは確かに「自分の生に対して興味深く目覚める」(ニーチェ)ことに直結していたはずではあったが、その笑いもいつしか醒めて、ネット上をうろちょろしていると佐々木敦という人が岡崎乾二郎に対しての、ずいぶん中途半端な批判にもならない批判めいたこと(まったく自分を興味深く目覚めさせてはくれない文)を書いていて、うんざりしていたことも、もちろん原因のひとつにはあったはずだ、と自分に言い聞かせたりはした。そして、眠りを導かんとして読んだ小説ではあっても、遠くから、いろいろな声が届いては消え、ときには『ひたひたと』の文面に吸い込まれることはあっても、また別の声がどこからかやってくるのだった。対象の輪郭を欠いた現前と消失の繰り返しの中で、さっきまでの眠気は、しかし、どこへ行ったのやらと、ふと気づいたときには、時間がぼくに文章を読む空間を与え始めており、それから、しばしの時のさらなる経過に気づいた。そして気づいたころには、もう、ぼくは『ひたひたと』を読み終えていたのだった。そんなもうろうとした状態で読んだ小説ではあった(半ば小説自体がぼくをもうろうとさせていたとも言える)が、ずいぶんと面白かった。「共感します、共感しました。」とナイーヴに、青臭い文学青年のように、言わずにはいられない。読んだコンディションを括弧にいれずに言うと、『れろれろくん』をアップして、「岡崎乾二郎」に関しての下らぬ文章を読み、虚脱感が襲い、鈍重な眠気と酩酊が入り混じった状態から出発した『ひたひたと』と、最後の10ページくらいを残した『花腐し』の連続性は、作者が「ずいぶん楽しみながら書いているな、とくに細かい描写においては、」というどこか尖がっていて、かつ突端のキラキラした印象をぼくの虚脱の内部に浸透させ、虚脱をじわじわと略奪するように、はたらきかけたのだった。・・・もう思い出せないくらい、ずいぶん前から厭世観に征服されたひとりの人間の意識の中で、人間がかろうじて人間であることの「おかしみ=ユーモア」がものの見事にきっちり描かれている、といえば偉そうに聞こえるだろうか。『花腐し』の主人公、クタニは、いつのまにか、どうやら傘の差し方も忘れてしまったようで、「傘の差し方も知らないの。」と女になじられたりする。生きることも、死ぬこともほとんどどうでもよくなり、しかし、クタニが「立ち退きを命じてこい、そうすれば色をつけて金を貸してやるから」と、親玉から依頼されてやってきた、彼が立ち退けばすぐに取り壊されるだろうボロアパートの一室で「まあ、ちょっと呑んでいけよ。」と、伊関なる男から、ふと目の前に差し出されたたった一本の缶ビールなどが、なにか、クタニにとって重大な護符のようにも見え、差し当たってその振る舞いを断る理由も見つからずふとビールを口にしてしまうヤサ男、クタニ。・・・ああ・・たまらない・・・そして、雨の中、大久保のうらぶれた繁華街でキャッチに勤しむコロンビア人やアジア人の娼婦がクタニの居場所を伊関に告げる。伊関の部屋の奥でマジック・マッシュルームをやって、自身の肌がただれ落ちる幻覚を見ているアスカの裸体を見てしまったクタニ。・・・この世には、真に追い詰められた人間がいて、真に追い詰められた人間同士が真に傷をなめあったりする場面がある。「美の起源には傷しかない」というジャン・ジュネの言葉は伊関のいう「巨大なブラックホールに見えるひとつの花」と呼応している。




それにしてもふだん、めったに(全体を通して)小説を読まないぼくが、「ああ、小説を読んだのだな」と思える小説だったことは確かだ。そしてなぜ、筆者がその昔、アーバスダイアン・アーバス)ではなく、ウィトキン(ジョエル・ピーター・ウィトキン)の写真を評価していたのかが、ぼんやりとわかったような気がした。




さらなるむかし、十三のアップルシアターという映画館、たしか川島雄三監督特集で見た『洲崎パラダイス・赤信号』(1956)という映画を思い出した。『ひたひたと』の舞台である「洲崎」があの「洲崎」だったのだと了解できただけでも読む価値があった。