『れろれろくん』

●1

『れろれろくん』はリテラルには、サイケデリック絵本である。これを読むことは一種の中毒的快楽、そして無限の反復的、増殖的リズムに身を投じることであり、非−空間的なサイケデリアに身を任せることである。そしてこの非−空間的サイケデリアから『れろれろくん』を「さらに見よ」、という指令がこだまする。それはアルコールを摂取しすぎて「いま、自分がいる場所」が分からなくなり、そこで「やばい」という反省的な理性がかかわり、「自分の位置を確かめなおそうとする」感覚と似ている。体内や脳の血流によるケミカルな変化がそうさせている「自然」に抵抗せよ、と自身が自身に命令する局面である。




『れろれろくん』のお話は単純にして複雑である。まず、いっぱいいる「れろれろくん」といっぱいいる「よっちゃん」がいる(そして両者がいっぱい「いる」こと自体がいっぱい「ある」)。いっぱいいる「れろれろくん」のなかの一人の「れろれろくん」がいっぱいいる「よっちゃん」のなかの「6番目のよっちゃん」と遭遇する。その遭遇の仕方も単純にして複雑なもので、よっちゃんが、バドミントンや、なわとびや、ごむだん(関西ではゴム飛びというのかな?)をやりまくるスポーツのシーンにおいて、ごむだんが飛べなかった「6番目のよっちゃん」が走ってはこけ、走ってはこけしているうちに、そのどんくさい「11番目のよっちゃん」を「れろれろくん」が助けるのだ。(ここで、「よっちゃん」はこけまくっているうちになぜか6番目から11番目に変化している)そして、「よっちゃん」はその後も番号をころころとかえ、ついに「れろれろくん」と空で出会うことに成功し、二人はお行儀よく正座して「ごま団子」を食べる。(厳密に言うと「よっちゃん」はお湯飲みを持っている。日本茶でも飲んでいるのだろうか?)しかし、これでは、ちょっとわかりにくいので、手っ取りばやく喩えれば、六本木かどこかを歩いている「よっちゃん」がちょっと大人ぶったヒールの高い靴を履いていて、そのヒールをマンホールの穴につっこんで、こけそうになった、そのちょうどそばにいた「れろれろくん」が「だいじょうぶですか?」と声をかけ、こけそうになったよっちゃんの身を支え、「あ、ありがとうございます。」と「よっちゃん」が照れくさくお辞儀をし、その可愛さにグッときた「れろれろくん」が「あ、あの、お暇でしたら、今からゴマ団子でも食べに行きませんか?」と、ぎこちなく「よっちゃん」を誘い、「ええ、いいですわよ。」と「よっちゃん」が気持ちよく誘いに応じ、二人がめでたく「ごま団子」を食べに行く話だと思えばいい。そして、(これが重要なのだが)見知らぬ二人が「ごま団子を食べに行く」という奇跡としての現実、そのすべてを描いているのがサイケデリック絵本『れろれろくん』だと、まずはそう捉えればよいのだ。




「れろれろくん」の絵面はいたって複雑である。くれよんの上に水彩絵の具をのせたときに分離してしまう(ようは水と油の分離)、その分離感をそのまま採用しているような箇所がたくさんある。「れろれろくん」と「よっちゃん」の服装のデザインや色はまるで統一性を欠き、だいたい「どこに、どういうふうにいる」のかさえわからない箇所がいっぱいある。それは「現在のれろれろくん」が「三秒前のれろれろくん」と「三年後のれろれろくん」が出会えるかどうかをおなかをすかしながら空中に突然出現したような鏡に手をあてて気にしているシーンであったり、「よっちゃん」がスポーツをすると言っても、その場所にある、集合住宅郡が地上から浮遊しているように見えつつも、一方でバトミントンの羽根が地面にちゃんと落ちているようにも見えるため、すべてのスケールや遠近感がくるっているように感覚的に感知してしまうようなシーンであったりする。まさに、「れろれろくん」を貫いている問いは、「どこでもない場所」においていかに出来事が発生するか?という問いなのかもしれない。




そして、いくら「れろれろくん」が、サイケデリック絵本だと言っても、例えばサイケデリック・アートで名高い、ピーター・マックス(アニメ音楽映画『イエロー・サブマリン』の美術監督と言えば通りがよいか)のように、曲線を強調しつつ形の輪郭を保持し、カラフルかつオプティカルな効果的配色にしたがって、「サイケデリック」を演出するような、旧来的なものではないことは確かだ。空間の支持体ともいえる「れろれろくん」や「よっちゃん」の形象の変幻性、同一サイズの集合住宅、地面や空を指示するその配置のすべてが狂わされ、歪まされ、およそ重力とも浮力ともいえない「不思議な感じ」としか言いようのない、空間感覚、それを空間と言い切ってしまうのさえ、ためらわれるような感覚をいやというほど浴びることができる、という意味でサイケデリックなのである。




だいたい「れろれろくん」には、ふたつの角が生えており、その角があまりにも「よっちゃんの目」に酷似しているため、「れろれろくん」が四つ目のフリークスに見えてしまうという、その決定不能性自体、「れろれろくん」を人間と指示する断定性から遠ざけているのではないか。「よっちゃん」は「よっちゃん」で、つまずいて「こける」以前から、つまり、絵本の中に登場した瞬間から頭にコブをつけており、まるでそれが先天性の「コブ」ではないかと思わせることからして、へんてこな感覚を持ってしまうのだ。




●2

表紙のブルーの帯に強調されている足し算の原理「ワンネス」と「ワンネス」をたんに「足す」という原理を真に成立させるために準備される「異常なまでの複雑性」を『れろれろくん』から学ぶことができる。ただ、「よっちゃん」と「れろれろくん」の出会いの奇跡を「すべての現実は奇跡である。そして奇跡を支えているのが異常なまでの複雑性である」という言明に従えたところで『れろれろくん』が解明されるわけでもないだろう。




「すべての現実は奇跡である」と断定することは、よく知られた「わたしの言語の限界は、わたしの世界の限界を意味する。」(ウィトゲンシュタイン論理哲学論考 5・6』)の言明を肯定的に受け入れることと等価である。奇跡もまた限界であり、それ以上の事(fact)を見出されるべき指標をもたないからである。『れろれろくん』の面白さは、「れろれろくん」と「よっちゃん」の最後のゴマ団子を食べるシーンが、「決してそれ以上のものとして(それ以上のものを、ではない)描いてはならない」という定言的命令(カント)にある。それゆえに、たったこれだけのことを描くために、<論理的に>「異常なまでの複雑性」が要請されねばならないのである。しかし、「異常なまでの複雑性」をそれとして野放しにしておくのは、それが、人知を超えているメタファーにしか過ぎなくなってしまうだろう。もうすこし考えてみよう。




「複雑性=サイケデリック」という「定式」をたてるとすると、「わたしの有限性=奇跡」の無批判な受容は、それ自体を想像物として超越論的に再検討する(または反省的理性を導入する)ことを拒否したくなるほどの「定式」にしか過ぎなくなるだろう。通俗的には、麻酔、麻薬におけるエクスタシーとはおおむね「享楽=死」にかかわる「自然」として受容され、消費されているからである。しかし、重要なのはその「定式」の存立根拠、「ごま団子の最後の場面」の真の出来事性、その真意を問うために、「描く」「あらわす」という行為がいまなおもって、われわれに課されているということ、作者(おかざきけんじろう・ぱくきょんみ)はこれを実践しているという単純な事実に気づくこと、これである。(まさに、これだけに気づけばよい)。「複雑性=サイケデリック」が、「超越性=享楽=死」の受容に基礎付けられているとすると、『れろれろくん』の全貌はその過剰性において、単に疎外論的なドラマ「子供を疎外に追い込むドラマ」に終始するかもしれない。しかし、作者が立ち会うのは、「絵本=子供が読む」という図式において、陥りがちな「大人による啓蒙」を少しも狙わない、という非−意図の意図にある。それは子供が好んで食べそうなノーマルなお菓子を表象するのではなく、むしろアノマリーな「ゴマ団子」という物質をもってくることにあらわれている。(ちょっと無理なつなげかたかもしれないがaikoにとっての「アスパラ」も、同様であろう。)




誤解を恐れずに喩えると、「われわれは普通でいるために十分狂っている」(パスカル)のだ。「れろれろくん」や、まさに「子供たち」がじゅうぶん狂っているように。そして「サイケデリック」(世界の外側だと想定される位相)の効果はまさに「われわれが普通でいるために」準備されてしかるべきものなのである。




「奇跡は奇跡である」という言明がそれ以上のものを何にも説明しない(これは「崇高」の概念についても同様である)ように、「サイケデリック」はそれ以上の説明を持ってはならない。あくまでも効果は効果に過ぎず、それは「スローガン」にさえならない(ヒッピーはスローガンにしたけど)。効果はその目的格としては、めまぐるしく、別の位相を現前させる手段‐表象の技術を確保させる効率的側面にしかかかわらない。




(「サイケデリックの現前−わたしの限界への再効果」という閉じられた形而上学的円環の内部から、その効果内容を説明しようとしたとたん、ふたたび通俗的な<相対主義独我論者としてのわたし>に堕してしまうことにも注意を促しておこう。アルコールや麻薬は生の技術、認識の技法に関わるものなのだから。)




ウィトゲンシュタインは「論理はあらゆる経験・・・あるものがかくかくであるという経験・・・に先立つ。論理は、ものの状態に先立つが、ものの存在には先立たない。」(同上 5・61)とも言っているが、『れろれろくん』は、その表象の複雑性において、「ものの状態」を選択しているようだ。つまり、「れろれろくんはかくかくしかじかの存在である」というよりも「れろれろくんはかくかくしかじかの状態である」と言ったほうがぴったりとくる。ゆえに「れろれろくん」は人格化されえず、象徴化されえず、中心化されえない。すくなくとも『れろれろくん』は存在を描いているのではない。ウィトゲンシュタインに倣えば、『れろれろくん』には、それに先立つ「論理」があるということだ。その論理を考えるために「見直せ、さらに像を浴びよ。」と『れろれろくん』は言っているのだ。



(『れろれろくん』 (おかざきけんじろう・え ぱく きょんみ・ぶん 2004 )