ヴィヴィアン・ウェストウッド展から回想されたもの


「パンクは重要な現象だ。」とバロウズはヴィクター・ボクリスの『ウィリアム・バロウズと夕食を』の中で呟いていた(たしかジョー・ストラマーとの対談だったと思う)。しかし、そもそもパンクが重要だというのは、どういうことか?それはモーツァルトが、ベートーベンが重要だという意味においてそうなのか?それともまったく違う意味でそうなのか?



今更パンクを語ることなどは必要ないと思う。それが重要だとしても、何が重要なのかぼくにはわからない。ただ、ちょっとだけ、言っておきたいことがあるとすれば、1962年あたりから1967年にかけて、アメリカの工業都市デトロイトにおいて、『MC5』(motor city 5)というバンドが周囲からおおいに嫌われながらも(脳天気なヒッピームーヴメントの裏で)政治的な演奏活動をつづけていたことと、セックス・ピストルズニューヨーク・ドールズのカバーを演奏せず、ストゥージズの『NO FUN』をカヴァーしたことくらいか。あとは、ピストルズの仕掛け人であったマルコム・マクラレンがシチュアシオニスト・インターナショナルのメンバーであったことと、ヴィヴィアン・ウエストウッドが労働者階級の出身であることと、 ピストルズのアートワークを担当したジェイミー・リードのセンスは抜群だということくらいか?



ピストルズに関しては、新京極のユリナ・レコードで『フロッギング・ア・デッド・ホース』を買ったのが最初だろう。ピストルズサウンドとヴィジュアルに遭遇したのはそれが最初だったのだろう。しかし、ピストルズを買ったという動機にはマキ君という人物が大きく関与している。



中学二年生の時の話だ。ぼくは学内の名うてのヤンキー、マキ君という一つ上の先輩がどこぞの倉庫で「すごいこと」をやると聞いて、悪ガキたちと鴨川沿い、伏見の大石橋の近く、稲荷神社に近い、ある倉庫にちゃりんこに乗って二、三人で行ったのを覚えている。そこで始めてアンプ(多分100Wくらいの)から大音響で奏でられるパンク・サウンドを聞いたのが、生涯初めてのパンク体験と呼べるものだったろう。マキ君たちは「アナーキー」というバンドのコピーをしていたのだが、その音響に完全にヤラレテしまったぼくは雑誌『ミュージック・ライフ』の中にある通販の広告などを見て、ギターを親にせがんで買ってもらったのだった。ぼくは黒いストラトキャスターを買い、しゅういち君はプレンジョンベースを買った。ぼくは姉が持っていた『ビートルズ・80』というシンコーミュージックから出ていたコードブック付きの楽譜を見ながら練習した。当時コージというギターの上手い奴がいて彼に『オール・マイ・ラヴィング』を教えてもらったのを覚えている。その曲は「closed your eyes」という歌詞から始まって、eyesから「Dm」(ディーマイナー)を32ビートで弾くという、とても難しい曲だった。



パンク体験はともかく、重要なのはその「(名うてのヤンキーであり、パンクでもあった)マキ君が右翼になった」と悪ガキどもの間に噂が広まったことだ。当時「右翼」という言葉さえ知らなかったぼくらは、「右翼=パンク」という想像をもってしまった。「右翼」はとても、かっこよくて、「パンク的」なるものだ、と推し量っていたのだ。しかし、マキ君については、それ以上のことは知らなかった。マキ君はいつからか中学に来なくなった。それは右翼の活動に忙しかったからかもしれない。しかし、ある日、マキ君が死んだという噂が広まった。その後、マキ君の姿を見ることは一度としてなかった。



さて、ヴィヴィアン・ウェストウッド展によると、彼女のキャリアはニューヨーク・ドールズ(1971〜1975)のライヴ衣裳のために彼女が作ったものに始まっている(ピストルズの前にドールズの衣裳をつくっていたのだ)。それは「男性の身体=おかま」に着せるステージ衣裳であり、その黒地のタンクトップには、雑誌の切り抜きをパウチしたような装飾や、ふわふわした桃色の毛が生地の上に添えてあるデコラティヴなものだった。しかし、こんなところに飾られても仕方ないだろうとも思った。



<付記>

シチュアシオニスト・インターナショナル『状況の構築』がそのまま読めます

http://homepage.mac.com/araiken/antel0.html