「IMAGE」と呼ばれる対象についての唯一の回答へのヒント その1

<われ‐われ>が通常の<わわ‐われ>でいる時、<われ‐われ>はすでに抑制の利かない序列化された記憶に基づかされている。<われ‐われ>の物語が<われ‐われ>の記憶に基づいているのではない。事態はその逆であって、記憶に関する物語を外的な物語によって知らずのうちに作らされているのだ。テレビドラマにおける主婦の振る舞い方、それは多分、どこかで見覚えのある風景の一駒だ。いちいちそう気づくまでもなく、外からやってくる像とは記憶のさせ方そのもの、記憶への書き込ませ方そのものにせっせと介入する。そして<われ‐われ>が通常の<われ‐われ>でいられるのも、おそらくその記憶に対する像の結ばせ方をより限定させてることに起因しているのかもしれない。しかし、映画の面白さとはまさにこの記憶の序列化がもたらしている受動性にこそ、その遠因を持つ。<われ‐われ>が通常の<われ‐われ>でいられるその状態を映画は前提し、必要としている。記憶に関する物語をせっせと書きなおしながら<われ‐われ>は映画を見るのである。物語とは記憶の序列化、その序列の決定の仕方にこそ関わる問題である。「人はそれを記憶したいと思って記憶するのではない」この不可逆性にこそ、自然淘汰される記憶の書き込み、その類型化を見ることができるだろう。それでは、記憶はいかにして序列化されうるのだろうか?