考古学 ノート

 

 

 

 1 

 

 考古学が 扱うのは まずもって古い物質 古い物質について考える というリテラルな意味の共有 しかし古い物質それ自体の存在のみ では学問として成立せず たとえば 国文学全般をリファーして 遺物(のこったもの)の自己確証が 該当すれば国文学と 古物体 との相互関係系列がスキャン可能なもの として 存立する  また 捨てる という行為が ゴミの存在との連続性を保証するのは古今東西の普遍性があると思う そして のこったもの は のこすべきものでは 必ずしもない たんなる物体への注視(2016 8 4)

 

2

考古学の限界があるというよりも 考古学そのものが 限界なのではないか  考古学って ペダンチック過剰 という意味で ジェネラルな批評を恐れている 恐れつづけている そこに考古学の 退屈さ 保守 がある(2016 8 7)

 

マニフェスト用テキスト断片 英訳サンプル

🌑1
手当たり次第に朗読する
Recite at random
🌑2
手当たり次第に引用する
Quote at random
🌑3
ラディカルな姿勢を崩さない
Do not disturb the radical stance
🌑4
組み替えられた映像
Recombined video
🌑5
想像力を抑止する映像
Video to suppress the imagination
🌑6
われわれは別のやり方で別の映画を作る
Make another movie in a different way

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放送大学 西洋音楽史講義 関連ツイート 2

rajikoで 放送大学 音楽史講義 聴き終え
ロックはエルヴィス・プレスリー に回帰する という命題を 再回帰させると 
その命題は ストラヴィンスキー春の祭典 の 終楽章に回帰する という二重命題スパイラル

ドビュッシーガムラン発見は パリ万博でのことだった と知って なんだ そんなものだったか と それは最初からマーケティングに組み込まれるしかなかった の では


パロディとアイロニーが ないまぜになったストラヴィンスキー新古典派時代の曲がかかり ラディカルさ を考えなおすきっかけとなる radiko西洋音楽史講義
次回が最終回らしい


トータル・セリエリズムのような ほとんど 誰も 聴きたがらないような曲を あえて つくり 発表するのを 拒否 回避するのではなく まずは単純なヒューモアとして 受け入れることのほうが 音を楽しむという根源に 近づけるだろう


西洋音楽史講義 第15回 聴取 ●さいご コルンハルド スタイナー ロータに至る映画音楽に触れたあと 現在は【 前衛と娯楽の深刻な分裂 】 ということばでしめくくり 西洋音楽史というカテゴリなので おのずと 第三世界フォルクローレ エスニック 民族音楽は 扱われない




後期ストラヴィンスキー アゴン と トータル・セリエリズム の代表曲 ブーレーズの 構造1 構造 2 2台のピアノのための構造 を 聴取 パロディー/アイロニー/ロマン という 操作も ヒューモア という 反操作の操作も どちらも 死にものぐるいだと いう 感想


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以上 ツイッターより転送

放送大学 西洋音楽史講義 関連ツイート1

rajiko 放送大学で ロマン派音楽 についての レクチャー 半音階の多用が 感情の曖昧さと結びつく時代 それらは 曖昧さ回避としてのサロン音楽 過剰装飾≒サロンのゴシック的と要素との強固な結びつき に
対抗するものとして


ワーグナーはオペラの台本を外注せず 自分で書いていた


なんとなく リヒャルト・ワーグナーが当時ヨーロッパに与えた影響(ニーチェも含めて)ということをかんがえていると ドイツ・ロマン派の文学 シュレーゲル、シャミッソー、ノヴァーリスあたり を読みなおしたくなり もするが 書店の前まできて 入るのが面倒になる



というのも ワーグナーから受けた 影響 ということでいえば 最重要なのは ドビュッシーで 実際 ドビュッシーワーグナーらしさ ということを注意しながら聴いていると 汲み尽くせない 想像力が掻き立てられもする



ワーグナーとドイツ・ロマン派 及び 初期ニーチェ と結びつけて考えることはなにかを隠す サロン音楽上がりのドビュッシーが 実はワーグナーの影響から出発していて そこから後期ロマン派 初期シェーンベルクを経由して不協和音重視の 現代音楽へと発展していった経緯がある


順番でいえば

ドイツ・ロマン派→ワーグナー→後期ロマン派→ドビュッシー→初期シェーンベルクヴェーベルンによる切断→いわゆる無調音楽→イタリア未来派→ノイズ・アヴァンギャルド


+無調音楽のはじまりはベートーヴェンの難聴とも関係ある


哲学史になぞらえると 

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以上 ツイッターより転送








Google 画像解析 関連ツイート (まとめ 1)

Googleが開発提供している画像解析サービス
ざっと 目を通したが 興味深い
が 画像ではなく動画に適用するケース
つまり 映画を見て なんらかを語る という慣習を 
人工知能が 代用し ついには批評できるレベルにまで→

https://t.co/oBwkEpUuiy



→ に応用されてゆくと 作り手と批評の人工知能の間にしか映画が発生しなくなり 観客は必要なくなる
というよりも 観客は あらかじめ 当の映画を批評した人工知能の 二次的な存在にしかなくなる 
作り手が 作品を発表するという 意味というか 価値観もおおきく 変わってゆくように思える



Googleは 単一画像を取り上げて 解析する手法を テクノロジーで 行うということだが 具象絵画レベル あるいは 一枚の写真レベルで も リファーできるので その場合


作者は 一枚の 具象絵画 写真に 内包される タグ付け(おそらくはいままで無意識的にやっていた) や タグ付けを可能にする カテゴリー メタカテゴリー をどう設定するかに 意識的に 取り組んでゆくことに なるだろう


■以上 2016年6月 ツイッター掲載分を転送

Google 画像解析 関連ツイート (まとめ 2)

たとえば マティスの『 音楽』

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アンリ•マティス 音楽

を 2016年現在にコンピュータが画像解析すること と マティスが『音楽』を描いたさいに 無意識的に行った タグ付け(記号処理) との差異はどう扱うのだろうか


(つづき) 最近はやりの IOT の概念に従えば なんでもかんでも 商品や物体にセンサーをとりつけて それらを インターネットを介して 情報データを共有すると より
ビッグデータに貢献できる また 使用価値の 応用範囲も

ひろがる といった方向が 考えられる
画家はキャンバスの裏側にBluetoothを経由できるICセンサー(画家自身が完全入力した)なりを貼り付けておけばいいのかもしれない モンステラにはモンステラの生産過程 それが


マティスに遭遇するまでの全過程がある
サロペットの購入場所 サロペット開発の企画会議からその製造過程のすべて サロペットを描いた青の絵の具の生産過程までのデータ ……1枚の絵画には実は数え切れないほどの情報量があるのだ という


事実があかるみになったとき これまでの絵画批評が 1枚の絵画の ほんの限られた程度のもの(記述情報)しか参照しえなかった ということに なるのだろうか



画家が(画家に限ったことではないが)主体的に1枚の絵画に(無限化できるくらいの)無数に含まれる全情報を恣意的に有限化し インターネットに情報公開すること(あるいは特定の人工ー美術批評ー知能に読解させる)によって ついに画家に近傍する美術批評家なるものは いらなくなる


この次元で しかし チャンス・オペレーション 乱数表応用などの偶然性取り込みの コンセプトからなる芸術作品(60年代ケージなどの)が また 応用されるだろう 偶然そのものは 人工知能は読解できないものとして


通常の劇場用映画となると気も狂わんばかりの情報量になるし 観客は その膨大な情報量を 無意識的に 捨象しながら 映画を知覚しているはずなのだが そういったものは言説 や 批評の対象とはなりにくい
つまり意識化しにくい
観客が物語を欲し 映画会社が物語を 売りつけるかぎりにおいて


■以上 2016年6月 ツイッター掲載分を転送