新・映画ノート 8

◼️地味なおっさんがほとんどでいかにも血管切れそうな若者が絶無なのが残念だが、

ユーロスペース@渋谷でゴダール&ゴラン(+数名)期(ジガ・ヴェルトフ集団)のPravda(プラウダ)1969。

◼️20代の頃(ちなみにワタシ1969年生まれ)はもう見たくて見たくて仕方がないにもかかわらずまったく見る機会がなかったので、スチール写真見て妄想して自分で動かすしかなかった時期の映画の1つだ。

◼️たしか20代半ばにアテネフランセで同じく1969年制作の『東風』観て衝撃のあまりメガネを紛失したが、今回は東風の免疫もあって、紛失ゼロ盗難ゼロ痴漢被害ゼロであるばかりかだいぶウトウトしながら終幕を迎えた。……ナレーションの女性の声が導眠剤的声

◼️ゴダール&ゴランは1969年になんと4本も撮っているのだが、こういう作り方だったらワンシーズンに一本作れるかなという~絶対的にいい意味で~ラディカルでスピーディーでコンビニエンスでライトリー(軽やか)で、しかしこの上なくエッセンシャルに暴力的な方法。

◼️ついにタイトルもクレディットも一切あらわれないのも衝撃といえば衝撃でアメリカ帝国資本主義的映画における膨大な量、しかも字が小さすぎて読めないクレジット風体(しかしあそこにクレジットされないと仕事が回ってこないという意味でのクレジット~信用書~みたいなもの)とは完全に真逆でゴダール&ゴランの匿名的意気込みがうかがえたりする。(こういう匿名性の方がはるかにカッコいい)

◼️ この時期のゴダールの映画を見ていると(いつもながら)物語映画を見ているよりも、多くの可能性を感じる。そのへんにある雑誌をビリっと破って、そのへんに転がっているフェルトペンでチャチャっとメッセージを書き込んでそれをベッドの枕元に一定期間溜め込んでおき、適宜適時に撮影を始めればいい。そのかわりにゴダールが常にフル回転で注力しているのが思考であり思考の練磨とそれらのストックと編集なのだ、(そう、ゴダールはもちろん映像と音響を編集しているわけだが、それ以前に膨大にストックした思考を編集しているのだ←⭐️ここ重要)

◼️ 1969年に制作されたのは●ブリティッシュ・サウンズ(撮影2月)●プラウダ(撮影5月)●東風(撮影4~7月)●イタリアにおける闘争(撮影12月)

 

 

 

(もう気が狂いそうくらいうるさい渋谷の居酒屋で   2019-4–21 18:35 )


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↑特権的に現れるバラのショット

ジェイムス・モナコがこのショットについて分析を試みている
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新・映画ノート 7

 

 

 

 

クリス・マルケルってSFの古典とも言われるラ・ジュテを見て、ぜんぜんつまらなかったし、あまり興味わかなかったけど、1982年にしては、わりあい新奇なスタンスで撮られた旅映画サン・ソレイユ はメカスっぽくもあり とべない沈黙(黒木和雄)っぽくもあった、、 しかしサン・ソレイユって日本語訳したら「太陽・太陽」でいいんですかね?まさか! (以下はTwitterより転送)

 

 

 

 

 

@渋谷ユーロスペース
クリス・マルケル
サン・ソレイユ
あー長かった

 

クリス・マルケルの映画は 短編の ラ・ジュテ と 短編オムニバスのベトナムから遠く離れて の一編 しか既観でなく 長編ははじめて 、、受付で席選ぶとき、pc画面でe6 を指タッチし、なんの反応もないのでもう一度押すと 受付嬢に「言ってください」と言われている時点で酔いが抜けていなかったとも言え

 

 

 

るが、まずまずいい映画だった、、アレクサンドル・コジェーブの日本的スノッブアメリカ的動物化という図式のアレンジともいえる(かもしれない)、、アフリカ的原始主義と日本的電子洗練主義の二項で展開しつつ第3項のなんだかよくわからない国の砂漠とか唐突になされるキリンの射殺とか戦争のメタ

 

 

 

ファーともいえる映像が準備される、、しかしそこにおさまるのではなく日本ーアフリカの二項を通底させるために日本的霊性とアフリカ的呪術で概念的架橋を試みている、、前者では豪徳寺の招き猫の人形、および人形供養阿波踊り、男根崇拝(秘宝館のものも含め)などがとりあげられる。アフリカ側のそ

 

 

れは言語化できるものではなく、動物の仮面を被ったアニミスティックな儀式が展開されたりする、、図式的にはこういうフレームがあり、時折山谷の底辺労働者やかずかずの動物(マルケルお気に入りのネコと梟)の断片が挿入され観客を和ませる、、しかし、重要なのはこの図式を単一の閉じたフレームとして、

 

 

 

扱い、というよりもひとつのレイヤーとして捉え、音響面また画像面でmade in Japan の電子機器その黎明期のものが扱われている点だと言える、、クレジットにIsao Tomita とあったことからムーグシンセの手弾きは彼の手によるものだろう、、しかもこれがあまりにもしつこく現れるのでうんざりしたことも

 

 

 

 

事実だ、、今ではレトロ・フューチャーともいえるかつてのモダニズムの遺産回顧は過剰になりすぎるとこうもうんざりするものかと思った次第である、、(アーケードゲームパックマンとかは趣味的に良かった)、、マルケル監督はどうもビデオ・エフェクトのソラリゼーションが大好きであり、それを多用

 

 

 

 

した画面がこれでもかと出てくる、、(なにか具象的なものをソラリゼーションが一気に抽象化してくれる表象だと心から信じてるようだ)、、まあ1982年の映画を2019年に観ているのだからレトロ・フューチャー視点それ自体の古さがどうしようも画面を覆っていて、たんに電子大国日本の強調に終わっていて

 

 

 

 

そこが中途半端に新鮮でもあり既視感もあった、、…それはそうと今渋谷で飲み食いしながらiPadで書いているんだが、酔いがまた回ってきて、店内も若者の熱気であつく、たんに暑いのでいったんこのあたりで、、まあいい映画だったことは確かですよーーーーん🐈 

 

 

 

 


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新・映画ノート 6

◼️  凡作ではないけど、愚作でもない、、『私はマリア・カラス』は未来展望、未来志向的なアーカイヴ映画であるにせよ、後半は恋愛回顧に偏りすぎていて、どうか❓と思う 、やはり音楽に映像がくっつくと、音楽の純粋聴覚性は半減する、、だってマリア・カラスだもん! (以下Twitterより転送)

 

 

 

1⭕️年配層が多すぎて、若者がいなさすぎ…まあ映画館は住宅街メインの土地柄しかたないかもしれないけど、オペラという保守的、因襲的なソーシャルがそもそも若者層を取り込むことをやめちゃってるのかなあ…とかなんとか

 


2⭕️ とはいえ監督のトム・ヴォルフ(ロシア生まれフランス育ち)は若手っぽく、ニューヨークに拠点をうつしたところ、そこでカラスの歌声に魅了されたもよう、、というように実は聴く機会が少ないだけでオペラってまだまだ(ロックやポップスに比べて)相対人口は増えるような気がするな、、クラシックの延長で聴く流れはまあ正統だと思うけど、、

 


3⭕️映画はまあいろいろ賛否あるけど、歌声は何度も聴いていて、フッテージYouTubeにたくさんあるのでたまに見ていた(たしかブレヒト三文オペラでも歌ったと記憶してるんだが、それは登場せず)、、

 

 

 

4 ⭕️ 万葉集にせよ、ギリシャ悲劇にせよやっぱり古代中の古代から(非メロディ的にではあれ)歌うという行為はあって、それはどうしようもなく普遍的なことなんだけど、一方でポップス消費→カラオケ消費→エネルギー消費という回路の消費的一回性(消費的一回性の確率論的結果が(時代)と呼ばれたりするのは否めないけど)があり、次々に歌の肥満性を回避してゆく回路がある、、

 

 

 


5⭕️後期ルネッサンス期のフィレンツェギリシャ悲劇を復活させようという動きがペリー二を主としてあり、それがワーグナーを経由してニーチェヘルダーリンひいてはパゾリーニパゾリーニの王女メディアにカラスは主演、、映画の中でパゾリーニ登場)につながっていくんだと思うけど、そういう系譜でアメリカニューヨーク生まれ育ちのカラスを捉え直す必要はあると思うな、、

 

 


6⭕️まあ、3年かけて世界中の遺物映像を探し、つなぎ合わせていろんな関係者と会ってインタビュー(60時間)してそれもつなぎ合わせて、そりゃあマリア・カラスだからなにをどう繋げても同じような感じになるとは予想できたと思う、、

 

 

 


7⭕️残念なのは封印されていたラブレターから後半恋愛回顧ものに展開していったこと(夫のギリシャの富豪オナシスがケネディ大統領の未亡人ジャクリーンと結婚したっつのは大きな物語だとは思うけど、、まあこれがないとこの映画の売りがなく、オバサン層を取り込めないとわかっていても、ちょっと頼りすぎているなと思ったね、、(もちろん監督は音楽そのものよりもカラスその人に興味あるとも…)

 

 

 

 

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愛しのパゾリーニ監督とカラス様、、、カラス様の映画デビューが「王女メディア」 の主役だったのだ!

 

 

新・映画ノート 5

 

以下はTwitterより転送

2019年(だいたい)2月3月に観た映画

 

 

 

 

 

■アラン・ロブ=グリエ  

   快楽の漸進的横滑り(1974)

 

 

   @下高井戸シネマ  5分に1回はおっぱいが出てくるおっぱい映画、、巨乳でも貧乳でも無乳でもない普通乳の標準的現れ、、楽しい映画でした、15回ほど寝かかったけどその都度、急激な音響に起こされました、、

 

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 ■   小津安二郎  

        秋日和  (1960)

 

 

最近のコは、ロカビリーだとかプレスリーだとか…というセリフがありそれを体現しているのはめずらしくおキャンな役柄の岡田茉莉子…暇なリーマンの酒の肴にされる女たちのいやーな(今日のフェミニストの神経を逆撫でしそうな)話、そんで里見弴の兄が有島武郎って今知った、

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 ■ステファノ・ソッリマ

 ボーダーライン ソルジャーズ・デイ (2018)

  

 

下高井戸シネマ 時間まちがえてブラブラ散歩してから入館 、全体的に薄明画面で暗すぎるが、それはヘッドライト、テールランプ、に語らせるためか、、デイショットは砂埃、土埃をクリアにフォーカシング、、低空飛行のヘリショットの官能、、

 

 

 

監督のステファノ・ソッリマはイタリア人だけど、顔がなんとなくデニス・ホッパーに似ていて、アメリカ、メキシコ、麻薬 ということでラスト・ムービーなんかを想起させもするが、グロウベル・ローシャなんかも大好きだと思う、

 

 

 

 

始終サウンドエフェクトのドローンが下腹部的に鳴っており、純粋サイレンスのショットが本当に少ない…無意識的盛り上げ効果でうんざりするが、エンディングに2拍のドラムロールっぽくなってその曲は良かった…配給はKADOKAWA角川春樹好みっつうのは痛いほど納得、、眠くはなりませんでした

 

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 ■  エルネスト・ダラナス・セラーノ

セルジオ&セルゲイ 宇宙からハロー(2017)

 

 

駅におりたとたん、またか!とよぎったが@下高井戸シネマセルジオ&セルゲイ 宇宙からハロー、2018 キューバスペイン合作で、観賞中5回ほどウトウト…宇宙と実生活空間とのパラレルモンタージュでなりたっている映画だが、宇宙船シーンのVFXで 見なきゃ!、と、目覚めさせられる、、

 

 

ストーリーらしきものもなく、ゆえにドラマもなく、ということはプロットもない、つまりシーンの推移(寺田寅彦)しかない退屈映画93分、、ひたすらボヤーンと画面を眺めていたが、ロン・パールマンが出てくるシーンでやっぱりトム・ウェイツに似てるわ…といちいち思ったり、7.8年前の

 

 

 

ガーフレと両国に相撲を見にいったことをなぜか思い出し、頭の中はなかなかそういうことで忙しくもあった(そのくらい退屈な映画だった)、、まあ冷戦時代の旧ソ連キューバの話で共産主義体制下の貧しくも楽しい暮らしのなかで、アマチュア無線に興じている青年が宇宙飛行中の無線と周波数を合わせ、

 

 

 

会話を楽しむ、というそれがメインシーンになっている、、そんで青年の口から マルクス・レーニン主義と4回ほど漏れるんだけど、4回も言わすんだったら、著書の一節でも朗読すればいいのに、、と、、ここは商売けゼロのだだ広食堂、、 

 

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 ■ファブリス・ドゥ・ベルツ

     変態島(2008)

 

エマニュエル・べアールといえば、リヴェットの美しき諍い女だけど、変態島という映画に主演してると聞き、レンタルやに奇跡的にあったので、play on していたが予告編でお腹いっぱい、、聴いたことあるなあと思ったらデュランデュランのRio、あ、グラビアの美少女だったかも  

 

 

Pale な blue eyed のべアール はいっそうの虚無感、悲愴感を讃えていてハンディショットの緊迫手振れ感がそれに拍車をかける(中期の神代辰巳の映画っぽい)、タイのチンピラパンクス、裏番などキャスティングは冴えまくっている、真面目な映画じゃん、て、まだ前半60分 

 

 

返却日にきづき急観賞、ベルギーのTVあがりの若監督だけど、90%はタイロケで貴種瑠璃譚(折口信夫)の逆バージョン?の真の子探し奔走to未開の島、ラストは顔面白塗りの不気味子供らががウハウハでべアールのおっぱいを触りべアール官能、子探しが母探しに瞬間反転するという親子丼的結晶世界

 

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 ■アンジェイ・ズラウスキー

    シルバー・グローブ(1989)

 

 

アンジェイ・ズラウスキーの シルバー・グローブ(1988) をストリーミングで、ワイダの助監督を6年もやってたのが信じられない、狂気マジメすぎて(神と人類の関係を観念的に探りすぎ)かえってハチャメなイカレすぎハアハア映画、つーかヤク中のタルコフスキーが撮ったらこうなるのか?

 

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 ■ジャン・ヴィゴ  

    アタラント号(1934)

 

またかの@下高井戸シネマアタラント号(ジャン・ヴィゴ)、1934年当時のモロモロがスクリーン(しかもスタンダードサイズ)に映っているというだけで感動、、光景的に好み(港湾、運河、海沿い工業地帯)でさらに感動、短編の競泳選手タリスでもシネマジェニーな水しぶきが記憶にまだあるが、

 

 

ラストの運河走行の空撮ショット(しかもカメラ揺れ揺れ)はじめ水表情の多様がやはりトリュフォー評価を招くの納得度★★音楽好きヴィゴという確信は初めてでラスト近くのシャンソンパレスでのスロット式立ち聴きマシンはじめ蓄音機など博物学的インタレスト(当時の生活様式やも含め)も到来度★★★

 

 

ディタ・パルロ(主演女優さま)ほかキャスト全員好感度★★★★登場😸の可愛さも★★★でもやっぱり顔的にやや嶋田久作似の船乗りのオッサン(オーバーオールが激似合うワーカー)に特別★allstar★いい映画だった!新学期とニースとタリスばっかり上映されててアタラント号ってなかなか見れな

 

 

ったのよねえ上映前音楽ジャンゴ・ラインハルト&ステファン・グラッベリーは、もうこれしかないー、という感じで★★

 

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 ■  ベン・ウィートリー

      ハイ・ライズ(2015)

 

バラード原作 ハイ・ライズ
ストリーミングで途中まで、原作は1975年、イギリスタワーマンションはSFという括りでは有、現在Jタワマンは空き部屋地獄に突入という流れで、別の意味でディストピア化がすすむ予定、セレブらのだらしない着衣ファックやチェーンスモーキングとか見てて楽しい 

 

 

ハイ・ライズ 観了 ブニュエルのエクスターミネーター、、皆殺しの天使みたくロジカルな不条理感の演出が一切なく、インフラ停止でカオスなタワマン内部でのオージー(乱痴気騒ぎ)に合わせたノリイケな作りになっていたのが残念といえば残念、、洗練の果ての野蛮さは飼い犬の肉を食うことに着地

 

 

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 ■ジャン=リュック・ゴダール

     勝手にしやがれ  (1959)

     気狂いピエロ(1964)

 

 

 

ゴダール2本立て、ひっさびさに勝手にしやがれ気狂いピエロ、どちらも寺尾次郎の新訳なんだろけど、ピエロの方がなんか違和感あったな、ラストのアルチュール・ランボー 地獄の季節

 

 

からの引用がすべてなんだけど、旧訳の[太陽が海に溶け込む]とはまったく逆の[太陽が海から遠のく]みたいな訳(正確には忘れた)だったな、???でどうなのか?

 

 

勝手にしやがれ のパトリシア(ジーン・せバーグ)がフォークナーの小説「野生の棕櫚」のラストを紹介するシーン[虚無か悲しみか、私は悲しみを選ぶ]という引用セリフがあり、そこからもうジーン・せバーグの1979の自殺のことを思い巡らせつつ、顔が痒かったりしたが、

 

 

ブラックパンサー公民権運動に接近しすぎて、FBIからマーク されたあげく…という美形女優にしてはハードにポリティカルな存在だったが、

 

 

だとしても、結果的、実存的に 悲しみを選んでしまったセバーグ(悲しみよこんにちは には先行して主演)と一方の虚無的で滑稽で楽観とも悲観ともつかないベルモンドのアンビギュイティー というか透明性 のコントラストの描写は今回見てまあまあベターな発見ではあった、、

 

 

まあ、なんとなくベルモンドーゴダール映画祭というベタフレームにしてはいろいろと発見があった、ピエロにしてはもう10回以上は映画館で観ているので見方が細かくなってくるのは当然だろう、ということで

 

 

晩期ベルモント主演(現在85歳)ではベストの ライオンと呼ばれた男(むかし映写していたヘミングウェイ的シネマ) をも1回見なおしたいところだ

 

 

しっかし、35mmフィルム上映→DCP上映に移行で気になるのは、むしろ映像の質より音声の質、ネガフィルム→4Kにレストアで画面は(おどろくべき、かつ不自然に)無傷なんだけど、音声の方はザリっとした音圧高いモノラル感が残る…このズレ自体は修復できないし、むしろ修復不可能性を強調

 

 

寝起きにまた気狂いピエロの残像が…今回はアンナ・カリーナの化粧の変化が目についた、ホントいろんなパターンのメイク試しているし、凡庸エレガンスから次第にクールに殺伐としてくる感じ…

 

 

今回は初の@早稲田松竹でしたが、むかし京都から遊びに来た時に高田馬場駅周辺にも名画座がもう1個あって、あまりの暑さに映画館入って涼んだ記憶が…ニューシネマパラダイスと浴室(原作ジャン・フィリップ・トゥーサンのアレ)だったんだけど、その映画館は潰れちゃったみたいす

 

 

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■      ジアード・クルスーム  

          セメントの記憶(2018)

 

セメントの記憶 @渋谷ユーロスペースサウンド(とくに低音の持続)が異常でこれは催眠術の一種なのではないか、と思うほど半睡状態がつづいた、、鉄鋼音、機械モーター音、などのアーティフィシャルなアンサンブルが突如カットアウトされ、微小ノイズのカケラに減衰させられるという音演出👊

 

 

カットアウト→小鳥の声チラチラという[人工/自然]な、ダサ弁証法ではなく、あくまでも現代戦争としての⭕️現代建築⟷現代破壊⭕️という機械/電子のパラダイム内での音設計に鬼気迫る危機音

 

 

映像面はやや写真集的リジッド/スタティックな構図のなかにシリア爆撃ズタズタ住宅街の瓦礫ユラユラカメラが導入される緩急多しの刺激設計、、とくにラスト2or3カットあたり、360度回転ショットon the roadがいつまでも続き、なんだこれゃ?状態、が、

 

 

それ、それ、そのカメラはコンクリートミキサー車のボディ?に取り付けらている!と気付いた時は異常驚愕、、全体的に悩める現代映画に対してのベストアンサーにしてベタークエスト、、結局人間が演技するのってダッセエんだよな、と思い知らされる、、クール中のクールなドキュドラマ80分 ★🌙

 

 

 

成金建築inドバイに集まる中東バブルセレブらの負の局面に漸近? そしてもはや東京ステーション・ギャラリーでの開催中のアルバア・アアルトなんぞに行ってもなんの刺激にもならないことをも思い知らされるでしょうこの映画を前にしては、、

 

 

 

東京高層建築のマテリア=セメント の運搬フローが主に秩父山岩盤ダイナマイト爆破→青梅街道(都心へ)&南武線(JR)→川崎、ベイエリア)への運搬ルート、、
青梅街道はセメント街道と呼ばれていたこともあったらしい

 

 

 

ギタリストin 秩父 の笹久保伸が 岩盤ダイナマイト爆破 for セメント採取のドキュメンタリーを撮ってると知っている(見てないけど)、、ちなみにセメントの記憶のファーストカットはこの岩盤のドローンショット

 

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