読書ノート13 『遊動論』柄谷行人


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↓以下、Twitterより転載。

 

地味に読書。(初版で買って途中放棄していた)柄谷による柳田国男論だが、「情報量それ自体は昔から人の数だけあって、ネットやSNSの存在がそれを明らかにしただけである。」という、この書となんの関係もないことが降ってきて謎。NAM以降の柄谷文なんとなく取っ付きにくい。なぜに?(9月3日)

 

 

 

…地味読書『遊動論』柄谷行人 第2章。晩〜夜に読む方が入ってくると思われる。柳田国男民俗学者ではなく社会主義者だ、というテーゼの緻密な展開で、マジかのM&Eの『communist manifesto』(共産党宣言)の序文と『遠野物語』の序文の類似性指摘。ココ第1のクライマックス。推理小説ぽくなってきて👍(9月4日)

 

 

 

地味読書『遊動論』第3章。大塚英志の引用文が多く、戸惑う、というか意外なんだが、大塚英志ってそもそも都市民俗学の人やっけ?&「民俗学/民族学」の区分はヨーロッパ植民地主義時代の産物だが、国内的には分離不可能という柳田スタンス。熊楠と4年文通したが意見合わず決裂。とか。etcetc。(9月5日)

 

 

 

「全ての読書は地味である」。つづけて『遊動論』第4章 固有信仰。死後の世界が体系化、理論化してある社会とそうでない社会がある。核家族化以降の日本はむろん後者。(柄谷のとらえる)柳田のとらえる「狩猟採集民≒山人」の理念のベースに、この「死後に到来する子孫と祖先の位相」を回復させよ、

 

 

 

という命令があるよう。あと「ユダヤ人が真のユダヤ人であるためには父ではなく母がユダヤ人でなければならない」らしく、ユダヤ教それ自体は父系的だが、民族としては母系的、らしい。知らんかったわ。第4章は興味外のターム多く読みづらかった。家族≒血の物語につきあわされるのは欲望の対象外、という…(9月8日)

 

 

 

(↓以下は直書き)

付論、あとがき含め、読了。「やはり世の中このままじゃヤバいだろ?」という気風はいつの時代にもあると思うが、2013年〜近年の著者柄谷が目指すのは改革の具体案ではなく、理論ないし理論的基盤だ。そのとっかかりが「狩猟採集民ー山人ー遊動性ー交換様式D」というキーワードandコンセプトであり、新石器時代の定住革命後に起きた高次元遊動民にとりあえずのフォーカスがあてられながら理論叙述が展開されてゆく。

 

 

 

90s〜のクソな新自由主義、グローバリゼーション、そのツケどうにかしろよ!とは多くの識者、愚者が嘆くところであろうが、批判、評論、愚痴に終始せず、理念型提出、いわゆる未来ビジョン提出、を恐れず各自勝手に考えていきましょう、ということでしょう。なんかおれ焼畑農業にヒントがあると思うな。あと魚釣りの仕掛けの方式に、遊動式とか半遊動式とかありますが。(9月9日)