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自分の声を自分で聞くことには慣れてすぎていてそれをもはや意識することはない

ところがマイクという機械を媒介して聞いてみると なるほどこれが自分の声かとあらためて納得する

マイクが目の前にあるとなにか話さずを得られなくなりしかし話がないので声だけを出す

声だけを出すといっても日本語を発声していいのかなんとなく選んだ英単語の羅列なのか

歌詞なのか 好んでいるフレーズや決まり文句なのか

 

ふだん日本語を使っているので日本語を話す その時 ちょっとしたアクセントや文法を気にし出すと

とたんに発声がうっとうしいものになり  中断する そこで

カラオケボックスにいるように歌を歌う

といっても歌詞を覚えている歌なんぞはひとつもなく

歌詞を無視して旋律だけを喉でなぞらえることになる

音楽を喉でなぞらえることは言葉を話す 発声することとはちがい

高低差が目立って出現し それはそれで楽しい

50音の体系からプログラムされた現代日本語を 意味に落とし込む

笑いがワハハだとしてもワハは笑いを指示するわけではない

ただしい会話、ただしい意味の交換とは すでに形式主義的であり

日本語を話しあい理解を深めるという時点で

形式主義に準じているともいえる

最大限に細分化される音声はかぞえられるものではないし

そもそもが顔面、頭蓋、身体全体の諸構造に規定されているので

発声パターンの数とは その身体規定内での数ということになる