映画ノート21 



■ アレクセイ・ゲルマン 『神々のたそがれ』  2013




つい先日渋谷のユーロスペース2で『神々のたそがれ』を観た。177分は少々長く感じられたが、充分楽しめるものだった。ここに感想を述べておきたい。



1 声


1から100までノイジーである。地球よりも800年遅れている惑星の首都アルカナルに組織された自治都市、内部と外部の分割をあらかじめ拒否しているかのようなルネッサンス風あるいはゴチック風の建築空間。そしてモグラの巣穴のような複雑なネットワーク(空−間)。・・・この奇妙に入りくんだ迷路のような場所で老若男女たちの高速度で行き交う声の立体交差点で絶えず意味と意味が干渉しあい、交通事故が起こっている。こういってよければ、ディスコミュニケーショナルなノイズに全編が貫かれているのだ。もちろんセリフのひとつひとつの意味を追っている余裕はない。われわれの聴覚に届くのは登場人物が奏でる言葉のなめらかな意味、では決してなく、いくぶん半永久的な祝祭空間にも似た狂騒の声−ノイズのごった煮なのだ。それは中後期ゴダール(1970年代〜2010年代)の幾重にも重なった<声の立方体>(ポリフォニー)というよりも、そしてゴダールがそれなりに評価していたハワード・ホークススタンダップコメディヒズ・ガール・フライデー』(1939)にみられる野蛮寸前の弾丸トークというよりも、より厳密な意味で<声=言葉=排泄物>なのである。


2 肥だめ

声、そしてもうひとつの排泄物は、いうまでもなく糞便である。惑星の首都アルカナル(アナルカナルではない)は、画面を観るかぎり、年中雨が降りしきり、そのため土地は湿地帯であることをやめず、そのため病原菌も繁殖しやすい。ディストピアSFの格好の舞台?いや、そんないいものではない。800年地球に遅れたこの地では<中世の野蛮>が復活しており(というかいたって自然に遂行され)、そのため、土地の者は便所を発明することがないのだ。つまり(大小便用のピットみたいなものはあれど)土地全体が肥だめになっていて、泥と糞便の見分けがつかないほどに不衛生きわまりないのだ。このような土地に地球から30名の学者が派遣される、という設定になっているが映画自体がはっきりとした物語展開をポジティヴに説明することはないだろう。どうやら「知識人が処刑される」ということだけはかろうじて画面から伝わってくるが、しかしこの場面において肝心な「悲壮感」がまったく演出されない。ただただ即物的に死体が宙吊りされているばかりなのだ。まるで肛門から排泄される糞便がいつまでたっても(肛門筋によって)切断されず宙吊りになっている、そのようなものとして。


3 糞便=黄金

だが、一気に手のひらを返して言うが、『神々のたそがれ』は底抜けに明るい映画だ。そのキーマテリアルとして上げられるのは「金属音」をおいて他にはないだろう。先に私はこの映画を貫いているのは「狂騒的ノイズだ」と言った。さらにていねいに言うと、次のようになる。この映画においては、排泄物としての声がまさしく意味を欠いた<無用物>として聞こえるが、その理由は、有用、無用を超えた音、いわば絶対的リアリティとしての音があくまでも<繊細な技術的配慮がなされたうえで>聞こえてくるからなのだ。その音とは何か。・・<水・風・土・火>そして<金属>である。私見ではあるがごく正直に言ってこれほど<4+1>の音響元素バランスの上に屹立している映画は他には類を見ないだろう。もちろん土は汚泥と化し、水もまた汚水、あるいはエンドレスに降りしきる雨や霧と化す。火にいたっては暖を取るという以上に動物を、そして処刑後の死体を焼き尽くすこともある。風はさまざまな病原菌を辺りに散らかすだろう。だが、このようなネガティヴな物質群が奏でる音響は、アルカナルの住民の、呆れるほどにあからさまな生理的音響つまり、放屁やゲップ、唾棄というこれまで映画史において<抑圧ー排除>されてきた音響群との絶妙なバランスを保ったうえで、劇場に放たれるのだ。


「あまりにもハイムリッヒ(親密)すぎて、ウンハイムリッヒ(不気味)な対象となる」これらの生理的音響を逆照射させ、一気にきわだたせるのが、これまた金属音なのである。オンフレーム、オフフレーム問わず、たとえば鍋を叩き、甲冑を、武器を、生活用具を叩きまくる。他のどの音よりもダイレクトに伝わってくるこれらのメタル・パーカッシヴな音響こそがこの映画の真の主人公なのだ、といわんばかりに。


もちろん、私が「この映画は底抜けに明るい」というのはこの意味においてである。(ミッテラン大統領の側近でもあったジャック・アタリ Jaques Attali の『Bruits:Essai sur l`economie politi』(邦題は『ノイズーー音楽・貨幣・雑音』 みすず書房)の装丁にブリューゲルが使われていたのをここで思い出す)。また(的を得ているかどうかはともかく思わずキーパンチしておくが )たとえば原武史が『皇居前広場』(ちくま学芸文庫 2007)の冒頭で「皇居前広場は<打ち消しのマイナスガス>で充満している」と述べたこととは逆に、このアルカナルの自治都市はどれだけのマイナス要素を繰り広げようが、「累乗化されるプラスガス」で充満しているのだ。



「糞便は黄金=貨幣のメタフォリカルな言い換えである」。この例は主に美術史に則した研究においていくらでも上げることができるだろう。そして美術史にさらに加えて、70年代後半の文化人類学民俗学的研究から発したものがおおいのだが、国内の鯰絵においてはその肛門から糞のかわりに金貨が奔流している。あるいは動物の口から金貨が放出されている絵が多くあることをなんらかの資料で読んだことがある。こういう事例をまたずとも、農業においては糞便こそが肥料=栄養源となりえたのだ。豊穣を支える有機体としての糞便、この歴史的な事実をここで再確認しておくことにしよう。





以上、『神々のたそがれ』(原作はSF小説『神様はつらい』・・A&Bストルガツキー兄弟)に関するミスリーディングを含めた上でのリーディングを記述してみたが実のところ、まだまだ気になる点は余りある。ラストシーンは溝口の『雨月物語』にあまりにも似ていた・・・冒頭と最後に主人公が吹くクラリネットに似た音楽はエリック・ドルフィーにあまりにも似ていた・・・などなど。・・だが時間がない、またの機会に譲ろう。
(2015−4−18)