偽ベートーベン












オリンピックでの使用曲の一件だけではないだろう、偽ベートーベンを偽ベートーベンとして、どうして公表する気になったのだろうか。



靖国問題にかんする)(先日の)NHK会長の不適切な発言も含めて、偽ベートーベンを崇めていたNHKは袋叩きにあっているが、aera誌(朝日出版社)は、<偽>に対して勘ぐりを捨てなかったと言って、自社自賛している始末。



都知事選。投票は行ったが、どのみち誰が選ばれてもそうそう早急に日本が変わるわけではない。選挙に行くたびにナイーヴに政治を信じてはいけないと自戒しているし、はなから信じていない。これはニヒリズムでもアイロニズムでもない。実際、選挙政治が天皇制のもとで行われている限り、何も変わりえないのである。(相対的、局所的な微変化はあるのを認めたうえで言うと、・・・民主とか共産とか自由とか・・・、諸党は、(すっとばしていうと)<諸差異>をイデアとして持ち上げているが、天皇制に包摂された上での同一のゲーム盤上でのコマ動かしにすぎないのであって、天皇制自体を高度な政治システムとして批判-懐疑したうえでクリティカルなメス入れをしていかないかぎり、何も変わらないでしょう・・・・・・左翼的なスタンスではなく、原理的な考察として・・・これは時間をかけてゆっくり考えます・・・ちなみにわたしは皇室の各人を批判しているわけではなく、天皇制-国民(虚構としての国民・・ベネディクト・アンダーソンがいうところの想像の共同体)が暗黙に前提している暗黙知を批判している。)



「感動した」という事実はなかなか消去できないものだ。「感動した」ことに後悔してもなお。「真の感動」ならなおさらいっそう。


しかし偽ベートーベンというメディアがつけた呼称も、ベートーベンに失礼だな。あと福祉団体とかはもっと攻撃すべきだろう。これほど失礼なことはないと思うが。