近況







山に囲まれているとその風土を表現されがちな京都だが、じつのところ南方には山はない。そこにはれっきとした道路というものが通っており、宇治川を抜けて、容易に南方へといたることができるのだ。だが、時をさかのぼれば、南方にはおぐら池があり、それはそれは巨大な面積を誇っていて、いつだったか、明治期だったか、諸制度、市制のもとでか、干拓地、開拓地となり、水は絞り上げられた、という事実を知るひとも多いだろう。四条河原町と兵庫の宝塚をむすぶ阪急電車に水無瀬(みなせ)という駅があり、ここがおぐら池の縁に相当するのだ、つまりは「この瀬で水が無くなるのだ」と誰かに教示を得たことがあるが、水無瀬は西も西の方で、ほんまかいな、とうたぐったりもしないわけではない。が、相当に広かったということは確かであろう。




市内をほっつきあるいていると、たしかにたてもんとたてもん、マンションとマンションの隙間から山の稜線を拝めるのだ。それがしかと、瞭然と、目に届くということに京都ののっぴきならない京都らしさがある。これがとおいとおいところで保護感覚、「おのれは守られている」という錯覚を生むのだ。(山のてっぺんに外敵を偵察する僧兵や山伏が配置されてきた)。南方にはおぐら池という外敵の足をとどめる障害があって、これもまた防御の物理となったのだろう。琵琶湖からながれてくる宇治川からいまの京阪中書島のあたりにかけては、京の台所といわれた伏見という商業地があった。高瀬川開発に准じた角倉了以以降、水運性を利用した物搬がさかんにおこなわれ、琵琶湖からの水運は東山蹴上のインクライン、南は中書島というふうに入り口をふたつ設定した。北は野菜を売りに来る農家の人がでてきていた。京野菜の代表格ともいわれる賀茂茄子なんぞは、盆地特有の寒暑の極端さがもたらした土の組成のよさが旨味というものを自然もたらしたと聞く。西のほうは住んだことがないので明るくはないが、物集女(もずめ)という土地がいささか気になったりしている。




とはいっても、変化は変化だ。繁華街のまちあわせスポットの代表場所といってもよい、四条河原町の阪急百貨店がなくなり、かわりに「丸井」というデパートがはいった。これにひとことふたこと口を挟む京都人は枚挙にいとまないだろう。その上、地下にはこれまた東京もんである成城石井がはいっている。これは2、3年前あたりの変貌だったが、ショックであった。正直京都は東京資本にやられているということを鋭利に意味し(おお!排他的な京都!・・・ま、人によるけど。)、著名人が別荘やらセカンドハウスやらを京都につくりたがるのは知っていたが、そのなかでも軽薄で、なおも色めきだった東京っぽさを売りにしていただろう、糸井重里なんかが別荘をこしらえて喜んでいるのを見ていると疫病にもにたなにかに京都が犯されているのではないか、と怪訝におもったものだった。連夜で大学時のサークルの友人、中心街の酒友と宴席で一興してきたが、筋金入りの京都人であるTさんの口から、この阪急デパートから丸井への変貌の話を思いがけず耳にして、なるほどなあ、やっぱりなあ、と腹に刻んでおいた。





帰省直前は保田與重郎(やすだよじゅうろう)なる文芸批評なんぞをやっていた著名人、いや日本浪漫派という戦中戦後の文芸思潮を脈づくった張本人なんだろうが、保田の居たところが西のほうの鳴滝にあると聞いていて、ありかを確かめた、その周囲だけでも見てやろう、撮影してやろうと、それも文徳天皇のお墓のすぐとなりだというので、そこに行こうと算段していたのだ。でもやめてしまった。前日、テレビで瀬戸内寂聴さんが住む庵(いおり)をたずねるというスマップの人が司会をしている番組を見ていて、そこがなんとも風雅な鳴滝だったために、行った気になってしまったのだろう。そうか?そうじゃない中書島の黄桜酒蔵で深酒してしまったのだった。寂聴の「美は乱調にあり、諧調はいつわりなり」という題目の小説があるが、この題目はなんとこれまた大杉栄の言葉であった。スマップの番組で、集団クラフトワークのように、赤いおべべを着て、ずうううっと、すうううっとした脚を組んでいる女性たち、あれは諧調であり、偽りである。(CMの合間に脚を組み替えているのだろうか)それを背景にして、笑顔でしゃべくり、くりまくる寂聴さんはまさに乱調であった、が、モデラートの。93歳。すばらしい。





そんなわけで、この他愛ない帰省記をつづってようやく年を明かした気になっている。映像研究会V・O・BのOB&OGの皆々様、とくに主催のナカノ君、おつかれさまでした。また馬鹿話、馬鹿カラオケしましょう。そしてうるわしきトラジェンヌたち、と旦那様方、ご成婚おめでとうございます。こちら海より深い反省多し。失言、暴言、テキトー発言など烈火の叱咤をお願い候。今年も宜しくお願い候。(吉日)