BALL&CHAIN  8






キャンディーズらしからぬ春一番が吹き、武満徹のような雨が降った。3月になった。去年の暮れから年始にかけて実家に帰省したおりに、あちこちを撮影してまわって、ああ、年始はずいぶんカメラを回したな、どうしたものか、あれらはなにに使われるのか、ちゃんと記録されているのか、とコンビニ前の喫煙スペースで遠くを見ながら反芻していて、なにかの拍子に、ああ、3月3日はおばあちゃんの命日だった、と突如、脳裏に到来した。すっかり忘れていた。去年は思い出していたのだろうか。思い出せてよかった。




それにしても今年に入って、まだ満2ヶ月しかたっていない、ということだ。2ヶ月もたった、ということもできるが、そういう感覚はひどく出鱈目である。もっとも、深刻なのは気候であり、気候に制覇されている肉体のすべてであろう。




「雨が降っている、だが、わたしはそれを信じない」とはウィトゲンシュタインの名言だが、金輪際、天気予報など信じないことが、非界性を確認できるものと直感した。天気は信仰を超えている物理的事実、だが、天気予報は「存在の信」よりも「適合生成の信」を信じろ、というオブセッション。傘をささずに雨のなかを歩くヒューモアを大切にしたい。無関係性の開かれ、というあけすけな場所に到達せずにはいられない。で、なくては、「神は死んだ」が明証できない。「無関係性」と、洒落たフォントの刺青を背中に彫りたいくらいだ。チャリンコをふらふら前進させながら、そんなことを思い、果たされない義務感でいっぱいの頬がゆるくなる。




仕事を病欠してしまったのが軽躁軽鬱を促したのだろう。己の調子の一切を気遣って、やむなく断念したのだ。とはいうものの、11時ころより、例の駅前ド・ゴール・コーヒーで約90分、映画のアイデアを練り直し、「ああ!やっとスランプを脱することができた!」と、確信した。が、帰宅して、あれこれを、いや、あれこれ、ではなく、「まさにこれ」をやろうと気勢を張っていたが、眠気にやられて、惰眠をむさぼってしまった。調布は今日も不調。不調にして無調。調べなき春先。狂いなき夕暮れ。