朝起きて、鏡を見ると髪がイレイザー・ヘッドのようになっていて、驚いたが。


ここしばらく就寝時には、アイマスクをはめていて、朝になると額上部に移動しているためだろう。

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気圧の変化がはなはだしく、体調管理がむずかしいし、その上、頭が覚醒しきっていて、眠りが浅いように思われる。湯船にちゃんと浸かって交感神経と副交感神経のバランスを修正したほうがいいのだが、ついついシャワーですませてしまう。


さて、先日書いた「ソフトな会話」。これはまず、自分で自分を笑わすために書いているのであり、他人を笑わすという意図は98パーセントないだろう。


なぜ、自分で自分を笑わす必要があったのかといえば、それは外界の笑いでは不十分だという現れだろう。


のこりの2パーセントで笑ってほしいとは思うのだが、うまくいったかどうかはわからない。


調子に乗って、再び「ソフトな会話」を1篇だけ書いたが、次の舞台は銀座のギャラリー街になるだろうと予測される。


「音楽ノート」の続きにも着手していたが、途中で「地球の自転」とか「地軸のズレ」がもたらす音楽的影響を考慮にいれはじめ、そして話がややこしくなった。


実際、初音ミクなる人物がいると思っていたし、兎眼りおんもそうである。


そして、ボーカロイドというバンドに入っている人で初音ミクがボーカルを担当していると思っていたが。


ボーカロイドについてあれこれ調べていたが、ボーカロイドを開発した人が電通に大いに搾取されて、激怒しているということだ。


そして電通のことをあれこれ調べているうちに、迂回に迂回を重ねて、東京裁判時に、GHQに肩入れしていた(実務は翻訳係)横田喜三郎(1896.8.6-1993.2.17)という人物について調べなくては、ということになったが。


ところで、この人のHP(http://sada-office.xsrv.jp/archives/1438)によると、横田喜三郎は司法試験にも合格していないのに、最高裁長官にまでなったということだが。


AKB48の総選挙が行われたようだが、「誰がどうなった」とかは、私には関心ない。


東電と電通とAKBの三角形はおそらく強力なトライアングルであり、どうしてこういう事態になったのかを検証するとなると、膨大な客観的資料とそれを読みこむ時間が必要だろう。


管理社会のひとつの特徴として「主体に呼びかけてはじめて主体が主体になる」ということをドゥルーズが指摘していたと記憶する。(『記号と事件1972-1990』 1992邦訳出版)


ドゥルーズは「さて、視聴者のみなさん、この番組を作るのは、あなたです。」というテレビ番組内の紋切り型を例に出していた。


「さて、AKBのファンのみなさん、AKBを作るのは、あなたです。」この呼びかけも同型の論理で説明できるだろう。


アルチュセールも「主体の呼びかけ」についてかなりの分量で説明していたが、警察官の文句「おい、そこのお前だ。」を例に出していた。


現在の最高裁判所(東京都千代田区隼町4−2)の建物は異様であり、その異様さは写真からは感知できないと思う。建物というより城塞、要塞といった風情である。


その建物は1974年に竣工したが、なぜか、ものすごく新しく見える。設計者は岡田新一。


そういえば、3・11震災後の「絆」や「がんばろう。日本」キャンペーンを推進していたのも電通だと聞いた。


今、調べたが「そうだ。京都へ行こう。」のキャンペーンも電通がらみだった。かつての「ディスカバー・ジャパン」も電通が推進したが。


「ディスカバー・ジャパン」は写真家中平卓馬の考察によると、「都会の者が田舎へ行って、田舎を消費し、そしてさっさと都会に戻ってきて、最終的に都会の優越感を確認するだけのもの」ということだったが。(『なぜ、植物図鑑か』参照)


「そうだ。京都へ行こう」の場合はどうなのだろうか?「京都行き」がある種の優越感に繋がるのかどうかは、個々人によってちがうだろう。


「そうだ。京都へ行こう。」のロケリストにざっと目を通したが、電通にスポンサードされるのは、まず、寺社仏閣の類であり、結局「宗教界」をメインに金がばらまかれていると捉えることができる。


歴史がロマンの対象になったのは、日本浪漫派以降のことなのだろうか?


さしあたり、日本浪漫派の代表、保田興重郎が書いた「日本の橋」は、京都七条にあるみすぼらしい橋を対象としていたが。


電通のスポンサードに関しては、しかし、ほとんどの京都市民には関係ないことだろう。とくに鉾町の住民たちは、あの狭い道路にタクシーがわんさか走り、観光客メインの都市になってしまい嘆いている人も多いはずだ。実際この10年でひどく変わってしまったように思える。



京都は、特に院政期に「芸術家」へのパトロネージが顕著だったことはよく知られている。そして若冲観阿弥世阿弥尾形光琳円山応挙などの「芸術家」のパトロンとして、宮家や寺院が機能したことも事実だろう。



しかし、現在の仏教とは、いったん切り離して考えるべきだと思うが。



京都の高さ規制、転換期に。(6/16 20時08分 追加)

http://www.nikkei.com/article/DGXNZO42660920W2A610C1LDA000/