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■ タイトルと内容は関係なくていいんだヨ!君の名前と君の中身も。




午前中から近所の成城四丁目で撮影。と言っても、今回は被写体だ。来年3月頭の上映会場のHP掲載文のプロフ写真用に15枚ほど、ジャケットを2着もって。近所にお住まいの大学生は写真家の長島有里枝に憧れている。(もう随分前のことだが、ちょっとだけ話したことがあり、「ノガミさんはダウンタウンの松本に似ているネ!」と言われたことがある・・当時は似ていたのか?)。撮影に臨み、「どんな格好がよいだろうか」と、2、3日前、別のスタイリスト的人物に相談したところ、「参考に、」とイタリア(ややマッチョ)男3人のファッションフォトからの切り抜きを預かった。それらをベーシックに使い、完璧なコーディネイトを目指すも、ファッションセンスの良し悪しとは結局のところよくわからんし、あまりわかろうともしていない。それに、服はあまり買わないし、今回着た服も、いつ、どこで買ったかさえ忘れている。(本当に忘れているのだ、どうしようもない)。昔、ある人が「服装なぞ、好き勝手に着たいものを着ればいいのだ。それで、成功しようが失敗しようが、全部当人の責任なのだ、という恍けた意見くらいしかオレはもってない。」と言っていた。まったくその通りだ。ただ、ファッションは自己抑止的ユニフォームであってはならない、という最低限の理念は持ったほうがいいし、自己拡張の道具として大いにその使用価値を認めておいたほうが後々のためだろう。



そういえば、前の真夏日の昼間に、上下白の高級っぽい麻のスーツを着込んだ20代後半と思しき男が、コンクリートの地べたにあぐらをかいて、ニコニコしながら熱そうなカップメンを堂々と食べていた。これこそが完璧なお洒落なのだ。服さえも犠牲にする、ここに服の自由がある。ユニ・ボディが流通するコンテクストを捏造/擬装してゆくこと。見られていることを常に見、見返される前に、必ず見返すこと。服装−モードはドロモロジーと関係ある。服装−ファッションは全体主義的領土化と関係ある。(イタリア語の「ファッショ」が転じて、英語の「ファッション」、たぶんこれは正しいだろう)。



戦士、諜報員、革命家、売春婦、マイナーピープル・シンギュラリテ、そして、ありとあらゆる<徒党>を組む者。彼ら/彼女らに要請されるのはファッションではなく、<モード=方法>ではないだろうか。その方法がもたらすファンクションが「センス」と言われる一切なのではないだろうか。そしてまた明日の朝、君はスリーヴに腕を通し、手袋をはめて、外へ出てゆく。それはもう、誰かに見届けられるサインと化している。君がそう考えるより、もっと速く、はるか以前から。






(上映会場HP非掲載分 11/30 10時頃24歳の女性によって撮影・・・すっげえ顔青いんだけど、大丈夫か??)