『RED RED RIVER 2』 京都上映 その2




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■ 矢部史郎について



「しなやかな運動、それこそが、世界=愛の根底に息づくべき出来事の諸力の実現体であり、いずれ<ヴィオランス=暴力>へと集約する<諸-力>の潜勢体なのだ。」そんなことを繰り返し言っていた矢部史郎は今、どこで何をしているのだろうか。昨年、都内で起きたフィリピン人一家の強制国外追放に反対する運動をエスカレートさせ、逮捕され、勾留されていると聞いたのはいつだったか。(『愛と暴力の現代思想』(山の手緑との共著)では「絶対に捕まるな、絶対的に逃げよ」と啖呵を切っていたのだが)。<矢部史郎>で検索して、you tubeでも当の事件周辺の映像がたしか見れたのだが、そんな折に新宿ゴールデン街で彼のやっていた店 jacobins が閉店し、その周辺の人づてに彼の消息を聞いても不明だと知らされ、なんとも言えない無風の寂寞を感じたのはいつのことだったか。



2008年から2010年にかけてのこと、『RED RED RIVER 2』の撮影のさなか、ハイチ革命の指導者、ユサン・ルベルチュールのことや、五月革命アジテーターにして思考家、映画作家であるギー・ドゥボールアンリ・ルフェーブルのことを四谷の喫茶店で話し合っていたことが想い出される。そんな彼を主演にした撮影が終わって、顔をあわせる機会もなくなったころには、僕は次から次にやってくるアイデアの海原を泳ぎながら、めまぐるしく新作を撮っていた。



2010年に出版された彼の『原子力都市』。この書は東日本大地震の過熱報道がようやくおさまった今、来るべき夏の節電対策やサマータイム導入が叫ばれる今、まさに読まれるべき書物だと確信して疑わない。(コンビニで売られているようなB級のエロ本まがいに連載されていたとはいえ、素晴らしくラディカルな書物だ。)さて、ともあれ、来月の19日に上映する『RED RED RIVER 2』。整音した他は、ほとんど手を入れていない。矢部史郎の闊達にして鋭敏な姿はそのまま顕在している。シネマ・ヴェリテ的手法なのか、セミ・ドキュメンタル的手法なのか、そんなカテゴライズはともかく、矢部史郎の最後の言葉(セリフ)を耳をかっぽじって是非、その耳で聴いてほしい。これが、この一語こそが、垂直的歴史を水平的展開する一端緒であり、同時にその<重力=歴史>から解き放たれようとする一瞬間なのだ。彼は国家=警察に捕まった。空に囚われた気球のように、その軽さの重さのために。あとは野となれ山となれ。そう、それは未来への投機=賭けにちがいないなかった。足下は大地ではない、足下は島なのだ。(写真は上映会場となる<KARA-S>が入っているCOCON烏丸 )