■ ただいまはどこか
ただいまと言う
それを言う時は 今で
今とは ただ
いまだない時間 やがてくるだろう時間から
いまあらわれつつある時間への移行
その兆しがみえるあたり
今とは
ただいまと言うまさにその時で
只、今、この時、を言っている
この時は
映し見、移し身の今が只、あるばかりで
「ただいま」
そう告げることによって
(外界との縁ノ起によって)
映された身は
身を内側から立てなおす
身の見立ては起てられた縁によって
身をさらに移す
さらに移された身は おかえりを待つ
ところで
只、今は
今の臨界とのあわいよって
(now here が nowhere であるように)
これから身を移そうという まさに その今に
ふたたび内を外に反転させることが
確認される場所
臨界が結界に移行する場所でもある
すると
只今の「ただいま」はどこへ行ったのか
只、終わった今は後戻りできないことに
気づかされる場所だと
そう言うことはできるだろう
宙にういたままの雲
糸が切れても 飛びつづける凧
もう ただいまは
どこにもない
なぜなら
只、今はもはやない
*
ただいまが言われるのは
今であって瞬間ではなかった
身のあらわれのひらかれによって言われ
言われたただいまが身の移行 その完了を告げる
その円環性
*
観覧車のゴンドラは
かならず戻ってくる
鳥が巣をまちがえないように
*
さて
「より前」と「より後」を識別する「今」は
アリストテレス的な運動時間量に変換でき
創世と終末を設定したキリスト教の神学観と合致する効果を生んだが
アナクシマンドロスがかんがえた「今」は
アペイロン(無限なもの)との関わりを持つ「今」であり
有限時間を線形的論理時間と見なす楽譜や脚本
タイムカードのようなものであってはならず
もうすこし柔軟な「今」であるようだ
観覧車を眺める
あの青いゴンドラが戻ってくる
あるいはこの青いゴンドラに乗る
場所もなく、空間もない
時間さえないような時間
電車のようなダイアグラムがなく、過去と未来がぼやけている
行き先、方向指示はないが
今まさにこれ、只、今、地上のこれだからこそ、このゴンドラに飛び乗るという
現在性の強さ
しかし
待たない時間が待つ時間でもある不思議
只今があって、かつ只今はない
どのタイミングでも乗れるが
どのタイミングでも乗れない観覧車
ただいまはどこか