音楽ノート 5












■ ジェーン・バーキン 『イエスタデイ・イエス・ア・デイ』




真夜中の蝶、
例えばそれを手のひらからそっと逃がしてやる。
そこで、すぐに気付いたことだが、
またたくまに視界から消え去った蝶はその鱗粉だけを
指先に残していったのだった。
真夜中の、深い夜の指先についたセンスレスなパウダー、
いったいぜんたいそれをどうすればいいのだろう?
・・・月明かりの下でじっと考える。
吐く息は白い。



バーキンの声はとてもはかない。
ゆで卵がもとの生卵に決して戻ることができないように、
あるいは蝶の生命そのもののように彼女の声は、
とてもはかない。



彼女の呼吸はとても深く、
海底2000mの深度を誇っている。
そして彼女の声は・・・氷山の一角である。
(声は、その物理的本質において呼吸の延長にある)



彼女の声を聴くということ、それは薄氷を踏むことと同じだ。
それは極度の繊細さを要求する。
腫れ物に触るように、鼓膜を震わすこと。




その前に窓を開け、空気を入れ替えよう。
澄んだ空気に満たされるなか、
三半規管の精度を最大値にまで高めた上で、
彼女の声にそっとコンタクトしてみよう。





ストリングスの禁欲的なアルペジオ
つづいてすぐに彼女の声が被さる。とぎれとぎれに。
単語のシラブルを自在に崩し、ズラしながら、
漏れあらわれる彼女の声。



トゥイット(呟き)とウィスパー(囁き)の中間地帯で、
声の微粒子はあてどもなく放出される。
・・・ある時は頬をそっとなでるそよ風のように、
またある時は今にも崩れ落ちそうなスポンジケーキのように、
彼女の声はかぼそく、か弱い。
だが一方で、永遠に癒されぬ深い傷のように、
それは生々しくもあるのだ。




タンギングを最小限に抑えた「t」音がぶっきらぼうに投げ捨てられたかと思うと、「声の肉」を極度にそぎ落とした、ほとんど「声の骨」とでもいうべき「s」音があたりに稲妻を走らせる。




そして「a」音の伸びやかなヴィヴラートといったら!・・・これを聞き逃しては、彼女の声を聞いたとは言えない。(「sh」音とくっついた母音系、とりわけ「shadow」の「a」をつややかに彩るヴィブラートがとても素晴らしい)




(「タッチ・マイ・シャドウ」・・・「私にではなく、、私の影に触って」という幽玄的な、あるいはドイツ・ロマン主義的なポエジーは古典現代音楽の秀作、『映像』を書いたクロード・ドビュッシーを想起させる)




さらに注意深く聞いてみよう。この曲はレコーディング上の、極度にスロウ・モーショナルなパンニングの操作によってライトチャンネルとレフトチャンネルの振り分けを絶妙に空間的な仕上がりにしているのだ(また、その上から別の位相のパンニングの操作が施されていると思われる・・・・重層的パンニング)。




疲れきった男の、あるかなしかの頭脳の芯にまで染み込むバーキンの声。そして彼ら、男たちの乾き切った心が、なんともいえないコケティッシュな魅力で覆われる、それもほんの3分の小唄によって覆われるのも無理はない。



禁欲的なアルペジオ。あくまでも禁欲的な・・・。フランス人が得意とする言葉遊びを多用したイギリス女性が歌うこの曲を聞き直そうと思ってフラフラと、ほとんど朦朧とした状態で探しに出かけたのは、三ヶ月前あたりか、おそらくはありふれた駅構内の掲示板にピンで止めてあった女性誌の宣伝ポスターでジェーン・バーキンその人を見かけたからだった。彼女は老いてもなお、昔と寸分たがわず、ニコっと笑っていた・・・その愛らしくも大きな口・・そういえば、昔、「バー キン」というBARを木屋町に出店したい、と言っていた女性がいた。冗談には違いない、だが、上出来な遊びだ。(2010-11-23)