要するに




今日は、冷蔵庫の奥に冷やしていた紙粘土を3袋取り出して、こねこねしていた。何か自分が面白がれる形をつくろうと躍起になっていたのだが、万有引力に逆らおうとする形をつくろうとするあまり、しまいにイライラしてきた。イライラすると失敗するのはわかっている。形は到達点だが、紙粘土による造形作業は手に(直接的に)いつもとはちがった感触を与え、それを脳に届かせ、ある種の新鮮さを目に見えないところにとりこんでやること以上の目的はない。(と、言えるが、別の目的もある)








もう10年前くらいの話になるが、京都の東山区の渋谷(シブタニ)街道沿いに住んでいたころ、とある実験(というか遊び)をした。それはお地蔵さんを勝手につくって勝手に家の前に置いておくという実験だった。清水焼の産地でもある東山区はその手の店が多かったのだが、ある日、近所の潰れかかった民芸品屋のおやっさんがお地蔵さんのような形のミニチュアの置物をくれたことがあり、買ってきた紙粘土で祠(ほこら)を作って、その中にお地蔵さんを入れておき、祠の前に賽銭箱を置いておいた。賽銭箱は適当なものがなかったので化学の実験で使うようなフラスコをそれらしく置いておいた(当時なぜかフラスコが家にあった)。お地蔵さんにはノムラテーラーで買ってきたハギレの豹柄の布をまきつけ、おもちゃの赤いプラスティックのギター(フライングV)をお地蔵さんの前に置き、座りながら弾いているような格好をさせた。「これ、ヘヴィメタの神様やん」ということでおおいに喜んでいたのだが、驚いたことに、置いて2日目あたりにフラスコの中に小銭が入っていた。それはおそらく海外の旅行者が入れていったお金であり、(マルクとかフランとかそんな感じだった)たぶん、賽銭を入れた人は、ニホンのお地蔵さんと同一視してしまったのだろうとそのときは思えた。しかし、今は「ニホンの神様的なものととらえ、何かご利益があると思って入れたのでは決してない」と、ぼくは感じている、だが、それがなぜそういえるのかがわからないといえばわからない。




20代の頃はこういうアホみたいな実験をよくやっていた。今はあまりやる気がないし、やる気迫がないとも言える。五月になった。