新・映画ノート 10

ジガ・ヴェルトフ集団

イタリアにおける闘争

1969

@ユーロスペース渋谷

 

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↑主演のクリスチャーナ・トゥリオ・アルタン

 

◼️DVD で3回見たがスクリーン画面では初めて。以前から気づいていたことも含めて改めて確認しながら視聴した。1969年に撮られた長編の「東風」の次に制作されているが、引き続き黒画面(何も映っていない非表象の画面)への執拗な問いと、単語を反復しながらの間歇的な(空白/沈黙を導入しながらの)パーツをうまく残しながら映画そのものが緊張感を高めていく。

◼️第1部、第2部、第3部といちおう構成されていて、第3部では第1部、第2部への再言及(映像の使い回しもかなり多い)および、映画全体への自己言及がエスカレートして行く。ここでメタ映画的な様相を帯びてきて、これも「東風」の反復といえば反復。

◼️イタリアの女学生が主人公であり、社会変革というイデア(理念)を抱えているがゆえの矛盾が露呈し、その矛盾を止揚するという単純といえば単純な構図が後半部にかなり意識的に扱われる。

◼️セーターを買うという行為と労働者に知識を教えるという行為、アジビラを作る行為とスープを食べるという行為、さまざな行為を含む生活の全体があり、そのなかで女学生はあれこれ言及してゆく。それは問いと答えの絶えざる作り直しであり、問いと答えの目的/着地点を同時に拒否することでもある。

◼️カール・マルクスの有名なテーゼ「存在が意識を決定するのであり、その逆ではない」がなんども発話され、観念論者への攻撃もまた同時に頻発する。

◼️ブティックで服選びをするシーンが断続して現れる(売り子はアンヌ・ヴィアゼムスキーだ)のだが、第3部においてメタ映画化してゆくときに、【「この青いセーターは、 私に似合う」=幻想】という次元がナレーションで説明され、商品を購入するのではなく、商品が私に与える幻想を私が購入する、という資本主義的商品経済が内側にかかえ持つトリック(ギー・ドゥボールがいうなればスペクタクルとしての商品)を暴いてゆく。

◼️というように、東風ではアメリカ映画(西部劇)の表象が攻撃にさらされていたが、ここではイタリアの日常生活(労働と生活の繰り返し)を舞台に諸イデオロギー分析され、批判されてゆく。

◼️それにしても1969年のこの二本に見られる、随所に間歇的リズムを導入し、美学的に昇華させているだろう映像/音響の組織形態にかなりの陶酔感を感じているのはオレだけか❓視聴覚経験として、これがかなり心地よい+かっこいいのであり、セリフの内容を無視すればするほどすぐれた音楽に聴こえるのだった。(まあイタリア語がかなり心地よいというのもあるけど)

 

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