■47−1



■47−1 最近のYOUTUBE上で惚れた女ベスト3 その1



1 ニュー・オーダー「PERFECT KISS」→http://www.youtube.com/watch?v=hRqdOyMnnxM&feature=fvwrel

2 トレーシー・ウルマン「THEY DONT KNOW」→http://www.youtube.com/watch?v=wvZSdCTcS-A

3 レベッカ「ラブ・イズ・CASH」→http://www.youtube.com/watch?v=7xYldzMWzLg




こんにちは。土曜の午後、みなさま、いかがお過ごしでしょう。さて、お待ちかね(?待ってない?)の「最近のYOUTUBE上で惚れた女ベスト3 その1」です。・・・・のっけっからですが、こういったファナティックかつナルシシスティックな言及に終始してしまうのは、あまりにもハシタナイ(笑)ので、「映画および映像」を考察するための道具として使用させていただきます。




・・・で、ヴィデオ・クリップのフォームについての言及をすすめたいわけですが、あれこれと考えていたところ、「映画とTVとYOUTUBE」という三角形について少し自分なりの考えをまとめておくのがよかろうと思いました。・・・・映画は父親でTVが母親で、YOUTUBEはその両親から生まれた息子だということです。完全なオイディプス三角形です。これがまず第一点。第二点が「音楽演奏と映像」の結びつきがいかにして表象されてきたのか?の問題です。先祖は誰か?ということです。私が思うに、それはブリューゲルの絵からはじまっています。彼はとても音楽の好きな画家で、そしてドンちゃん騒ぎをもたらす民衆音楽も大好きでした。ジャック・アタリの『音楽・貨幣・雑音』の英語版(『NOISE』)をもっているのですが、その表紙にはブリューゲルの絵があしらわれています。そして、彼は『聴覚の寓意』(1618)というすばらしい絵を残しています。ミュージック・ヴィデオ・クリップの起源はブリューゲルにあるのです。もちろん、ピタゴラスが音階(ハルモニア理論)を発見した時の図像は残っています。江戸時代初期の京都のミュージシャンである八橋検校(京みやげの銘菓、八橋は彼に由来します、あの形は琴なのです)が、筝を奏でている図像も残っています。しかし、それは音楽演奏全体からは分離されたアイコンでしかないのです。・・・そして今は・・・リッチー・ブラックモアエレキギターをかき鳴らしているところを絵に描きたい、と思う人はいないのです。彼はすぐさま映像化されてしまうのです。





三角形オイディプスを見てみましょう。まず映画とTVの間には何があったでしょうか?ひとことでいえば、身体的なアクションによる娯楽、つまりプロレスです。TVの初期は家電の販売店から持ち帰ったものではなく、街頭テレビであり、街のどこそこで、庶民の人たちがプロレスを鑑賞するという場所において、一般化されました。ここには、興行という概念がTVにひきつがれようとする何かがありました。集団性が残っていた、ということです。そして集団性がお茶の間にひきつがれ、お茶の間はよりプライベートな個人に引きつがれました。これがTV受容の空間変遷です。・・・それでは、TVとYOUTUBEの間にはなにかがあったのでしょうか?誰もが頷くように、それはミュージック・ヴィデオ・クリップなのです。ここには映像と音楽というよりも「オーディオ・ヴィジュアル」という概念で整理されるべき軽薄さしかありません。その軽薄さのためにYOU TUBEは恐るべき速度で浸透しましたが、そこにはプロレス映像の表象と比較しようと思えば比較できるバンドマンたちやミュージシャンの表象があります。その身体性はかろうじて現存しています。





私が言いたいのは・・・プロレスの映像とバンドマンの映像を同時に見せることには一定の意味があるのです。この2つの映像を使って、近現代史の一側面を描くことができるのです。それが真のモンタージュということです。オイディプス三角形の外に出るにはこういった映画を作るべきなのです。または映画に歴史をいったん返してやるべきなのです。





少々固くなりましたか・・・さて、このあたりで具体的に映像を見てみましょう。・・・まずひとつめです。ニュー・オーダー(新秩序)のパーフェクト・キッス(完全なる接吻)です。私が惚れた女性はギルバート・なんとかという人です。「この人、マジ、すっごいキレイ・・・あーあーすっごい、このツマミをギュイ〜ンて回したあと、可愛くねえ!?。あーあー、エクボ、これもすっごい可愛い、もう一回見よ。」ということです。私は66回は見ています。(笑)。・・・この映像は1985年のもので、クリップを制作したのは映画監督のジョナサン・デミです。レストランの「ジョナサン」とは何の関係もありません(笑)。ジョナサンは、私が高校の時、1987年あたりでしょうか?に流行したトーキング・ヘッズというバンドのライヴ・ドキュメンタリー『ストップ・メイキング・センス』を監督していました。おっさん世代は覚えている人が多いでしょう。私はワリイシさんとのデートで(笑)、『ビギナーズ』を見に行ったことは覚えていますが、『ストップ・メイキング・センス』は見に行かなかったです。というよりも京都ではロードショーされていませんでした。





知っている人は知ってるかもしれませんが、「ニュー・オーダー=新秩序」はナチス・ドイツの用語であり、ニュー・オーダーの前進バンドであった「ジョイ・ディヴィジョン」もナチス・ドイツの用語です。それは「区分けされたJOY(楽しみ)」であり、・・・・おそらく避暑地的な・・・、「特別な休息地」というくらいの意味でもあるのでしょうか。よくわかりません。川端康成三島由紀夫二子玉川に別荘を持っていました。それがジョイ・ディヴィジョン的な何かなのでしょうか。よくわかりません。そして彼らはなぜナチス・ドイツに拘泥したのか?知る由もありません。ホモ・ソーシャリズム、いわゆる同性愛主義による政治となんらかのかかわりがあったのでしょうか?アーリア民族の純潔主義と関係があったのでしょうか?・・・でも、・彼らは、現在のテクノミュージックやクラブミュージックに多大な影響を与えたバンドであることには変わりありませんし、クラブ音楽、特にハウス・ミュージックの発生ととゲイ・カルチャーと黒人の結びつきは切っても切り離せません。パフュームとかの楽曲を聴けば、「ああ、こういったサウンドニュー・オーダーから始まったのだ。クラフト・ワークではないのだ。そしてパフュームとホモ・ソーシャリズムとは何の関係もないのだ。」とよく思います。





この映像において、重要なのは、・・・フィクション映画的要素を求めていないことです。これはロバート・フラハティのドキュメンタリーに近いなにかです。スタジオ演奏のシーンがずっと続いているだけです。カメラはおそらく3台使っているのですが、シーン系列は1つなのです。しかし、ちょっとしたドラマがあります。最初の15秒くらいで、ヴォーカルの男が唇をぺロッとなめ、そしてベースの色男がうつむき加減でピックを口に挟んでいるシーンが写されています。私は大笑いしてしまいました。男たちが紅一点のギルバートを狙っているような演出だからです。いや、これは演出ではなく、無意識にやってしまったのかもしれません。いずれにしても、わかりません。しかし、これは接吻の比喩的な操作です。そしてギルバートは、ついに歯を見せません。口をずっと閉じているのです。これが彼らにとっての完全なる接吻なのです。・・・・私は「・・・ギルバート、画面から出てこいよ。オレがパーフェクトキッスをしてやるよ。」とつぶやいてしまいそうです。(笑)。ウソです。・・・・そんなわけで、今日はここまでです。明日は・・・明後日になるかもしれませんが、トレーシー・ウルマンの(これも80年代半ばのヴィデオ・クリップですが、1979年にカースティ・マッコールが歌ったものが原曲です)「ゼイ・ドント・ノウ」(彼らは知らない)を見てみましょう。それでは。






ブリューゲル「聴覚の寓意」1618↓