2019夏 帰省日記1



🔷8月10日

 

お盆帰省の日記。道中わりとなにもすることがなく、読書にも集中できない性質になっているので、とりとめなく帰省日記を。いつも新幹線でビールとツマミで一杯やって寝ているだけでそれでもいいんだけど、今回は50歳記念アニバーサリー、サリー、サリーちゃ〜ん♪ということで道中書きまくる予定。

今のところ、明日11日のAM11に、姉と姪っ子と名古屋駅あたりでランチすると決まっているのでそれには間に合わうように西方面へ。どこかで一泊したいんだけど、小田原か長野あたりか迷い中。現在8時3分です。



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いつもの京王線つつじヶ丘駅。世間は今日からお盆休みかな。人が少なくて動きやすいです。しかしデイパックが若干重い…。ipadとHDカメラどちらも持ってきたのだ…。あとくだらないことも一杯書きますので暇で死にそうな人だけ読んで下さい。

 

🌟🌟🌟

 

ひさびさ18切符券売機で買って新宿駅から品川駅まで移動。例年は京王線府中駅からJR府中本町まで歩いて南武線で川崎まで出で京急で品川まで出るルートがクールだと思い、使ってたのですが、今回は山の手線。やっぱり混んでるモワモワ暑いわ。

 


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新宿駅南口あたりで思わず写。輪行バッグけっこう見かけますね。となりの黒いのはオルトリーブのサイドバッグか。輪行バッグとはチャリ移動用のでっかーいカバン。これでくるまないと電車には乗れないというルールがあるのです。自分もTIOGA製の輪行バッグ持ってる(下北沢のガチの古道具屋で購入)のだけど、なかなか行く気にはなれない。じゃあなぜ買った?!それを!数年前めちゃ行きたかったのですが、いつのまにか体力を完全喪失しちゃったのだよーーーーん。現在AM9。まだ山手線。

 


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そして乗り換え。快速アクティは年に一回は乗っているような。熱海までわりとすぐに行けるし、途中の国府津根府川あたりから見える山と海の緊張関係から出来上がる海絶景はなんど見ても素晴らしい。今回はけっこう盆混みしていてボックスシートがない!なのでさっきNEWDAYSで買ったサンドイッチが食べられない!現在AM930。品川駅。動画もあげたいなー。

🌟

 

 

小田原で一泊することに。

ようは相模湾なんですよねー。


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🌟無事小田原到着。電車内で食べようと思っていたぬるいビールとサンドイッチをコンビニのベンチでチャッチャッと食べる。ホテルにチェックインしようにもまだ時間が早い。すんごいいい天気でやっぱり海沿いの光線を感じる。
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現在12時5分。水分補Qのため紅茶とアイスクリーム。これから小田原文学館に行くのだ!
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🌟 なんとなく、最近 坂口安吾が気になっていて、小田原 観光 で検索したらこの小田原文学館で 安吾展やっていると知り、駅から20分ほど歩いて来館。安吾直筆原稿見たけど、なんと可愛い字だこと!まるで小学生女子のような字じゃねえか! そのカワイサに衝撃を受けたが、もうひとつ衝撃物が。(あとで書きます)


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🌟小田原文学館からほど近くの海。エメラルドグリーンに酔いしれていたら外人の集団が。教会関係の人らかなあ。小田原はなにげに教会が多く、坂口安吾牧野信一に薦められて読んだキリシタン関係の書物をもとに書かれた小説もありました。

 


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🌟ホテルの予約さんざん電話していたが、シングルの一泊でもダメでどこも満杯。海水浴場があるからかホテルの数が少なくて海水浴の民宿が多すぎると思われる。で、急いでネットでネットカフェ探して、満室だったらもう今日名古屋に行こうと決意するも一室だけ空き。15時に入室して明日6時に退室で値段はビジホとそう変わらない。まあ寝るだけなんでネカフェで充分。ソフトクリーム食べ放題は素直に嬉しいねえ。コーンがないんだけど。
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寒いので長袖がいるのお〜


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🌟

横になってしばし仮眠したあと、CINEMA CHANNEL で カメラを止めるな! (全編見れる)を飛ばし飛ばしで視聴するも途中また眠くなり今起きる。ストーリーを追う能力が完全になくなっている模様。

 


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🌟

なにげに観光地、海水浴場地、東京のお金持ちの別荘建立地である小田原なのか、駅前の店は混雑していて、小田原おでんの店に行きたかったが、まあいいやとあっさり妥協。(ちなみに小田原は蒲鉾〜練り物の名産)。テキトーに入った店がまた美味い!枝豆と、あーあと焼き鳥の味噌タレが美味しいですねー。店内でもよいんだけど、コミュニケーション要らずなんで外のエアリーゾーンで呑んでます。扇風機がガンガン周っている。いい店です。いちおう麺処。

 


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🌟🌟

なにげにここ おしゃれ横丁 。蛸と烏賊の味がする。ラーメンにつみれっつうのもいいですね!ちょっちしょっぱすぎるけどまあまあ美味しいです。

 

🌟

最初小田原駅に降りて寄ったのがおしゃれ横丁。どこが?といっても仕方ない。昼と夜のお洒落横丁。覚えとくわ。おでん屋はなおも混雑模様。
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🌟あー、ネカフェでもちゃんと見れんだなー。拙作のYOUtube作品。

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🌟先に戻って小田原文学館。暑さにうなされていて、庭園の喫煙長椅子でしばしボーっとして、ある瞬間フワッと振り向いたらなんと北村透谷の石碑がかなりのインパクトで衝撃的に出現。初期キュビズムのアンバーカラー系のパブロ・ピカソジョルジュ・ブラックを想起せる。北村透谷ってろくに読んでないけど、なんとなくキュビズムからダダイズムに至る最重要詩人なのかなああ、とか。この文学館の展示ルームで辻潤という名前けっこう見かけたのでダダイズムアナキズムかもしれない。とにかく一級の抽象彫刻作品ばりによかったです。
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🌟エアコン効きすぎで寒く、ブランケット借りて寝たが、となりの男がイビキうるさ過ぎでなかなか寝付けず。もういっかいビール買いに行ってキャバクラ嬢とちょい立ち話したあと、寝酒呑んでウトウトしていたが、それでも入眠できず。現在朝4時。退室して散歩中。駅構内で軽くパン食べて6時16分の新幹線の始発待ちです。

 

🌟小田原にはもう1回くらい来そうだな。こじんまりとしていて清潔な感じであまり刺激なさそうな街ですが、こういうところは女性に人気ありそうです。文学館の周辺なんて成城の高級住宅街みたいでした。とりあえず小田原ともいったんお別れ。

 


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やたらと呑んでるなー。

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こういうキレイめの教会を散見しました。


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あと、写真撮ってないけど路傍に野生の百合がけっこう咲いていて新鮮だった。

 

 



 

新・映画ノート 16

水谷豊はよく知らない人だけど、ドタマツルギーじゃない、ドラマツルギーをよく分かっている人だと思ったわん!80年代にスティーブン・パトリック・モリッシーが率いたthe smiths は、ワタクシが人生でもっとも聴いたバンドサウンドであります。ひ弱、女々しい、という形容がある反面、美しい、批評精神に溢れる、という形容もあてはまります。いずれにしても私のsmiths 好きは全曲作曲したジョニー・マーに負うところが多いと思われます。だってモリッシーのソロつまんないんだもーん!(以下はTwitterより転送)

 

 

 

◼️轢き逃げ  水谷豊

@渋谷ユーロスペース

 


なかなか面白かった。犯人が取調室でメガネをボリボリ食う演出とか…動物の目をコラージュして脅迫文送るとか。古典的なドラマツルギーだけど、脚本=筋運びを作動させている論理形式がしっかりしている。モトコー(元町高架下)を走り抜けるシーンが。

 


男性間の嫉妬関係がもたらす優越/劣等の転覆欲、劣が優を刺して超越化するプロセスに、水谷豊がアマチュア警察化していきながら捜査をすすめる流れも良かった、

 


観客は刑事の視線をトレースしつつ話を楽しむ。そして観客の視線それ自体が刑事化してゆくという転移現象。「真の犯罪動機」は何か?  物語にノラせる巧妙さはこの転移をベースに持つ。ま、神戸系べっぴんさんとかに向けられた無意識の視線もたっぷりベースにあるけど。

 


犯人が最初からわかってる映画ってヒッチコックの  間違えられた男が面白かったけど、捕まる手前ビクビクしてるの見てる傍観者の視線、、けど轢き逃げはもう1回ひねっているところがお見事。

 

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◼️イングランド・イズ・マイン〜モリッシー、はじまりの物語  マーク・ギル

@渋谷シネ・クイント   

 


ムーア殺人事件はマンチェスターで実際起こった事件で、サファー・リトル・チルドレンという名曲の歌詞素材になっているんだけど、その曲が結局鳴らず、ミート・イズ・マーダーっぽいリフをマー役が弾く、

 


のは納得できずで、かえってイライラ、、スミス前身バンドといっていいのか、ノースリーブスがラッシュホーム・ラフィアンズの原型曲をやっていたのにはイライラはしないが、特に感激もしない、、ロングショット完全抜きの閉塞感表現は意図見えすぎて逆に白ける、、よかったのはモリッシーのガーフレ

 


関係のバリエーションで、リディア・ランチ風の女子が良かった、、女装嗜好、ニューヨーク・ドールズファンクラブ会長表現が皆無だったのは残念といえば残念、、次はどこかでいつかあるだろうマザコン映画祭で見てみたい、、あと、映画見てて顔が痒くなるのはなぜか?それはホコリが原因?

 

 

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新・映画ノート 15

ジョナス・メカス

ウォールデン

1969

シアター・ イメージ・フォーラム

 

子供たちは、今すぐメカスごっこをするべきだ。

純然たる機械眼、遊戯眼、逆説眼。

(以下はTwitterより転送)

 

 

表参道に移動、@イメージフォーラムジョナス・メカス  の ウォールデン   メカスは何回も見てるので、たいしたこと思わんだろうと…が、ビリビリくる多感感激の中で3時間、シューマンピアノ曲好きってのは何か?と、ボンヤリ考え中、あと、いったんトランスにもってくねあれは癖かな

 

 

メカスの日記映画だけど……途中何回か、,,メカスは60年代末(ウォールデンは1969)にTwitterFacebookもインスタグラムもブログも映画的にやっていたのだ! と思ったのは確か、、

 

 

WW2後のニューヨークスクールから60Sマチューナス番頭のフルクサスを経て……いう系譜の中からリトアニア移民のメカスが出てきたことは、移民から出てきたロスコと対応できそうだけど、メカスの映像の肌理はむしろポロックぽいな

 

 

ウォールデンとは、確実にヘンリー・ソローの 森の生活 (10代に読んだ)から来ていて、映画の中にギンズバーグが出てきた時点でふうん、やはりそうか、と思うしかないんだけど、映画自体はバッキバキの感覚刺激で、反癒し系(反ヒッピーイズム)、、森の生活に着地できなさがまあ面白いし、そこを

 

 

 

見なきゃとは思うね、なんだかんだリトアニア‐ヨーロッパ人のメカスを捨てきれず、シューマンピアノ曲も5曲くらい使用してて、あと、映像系ダダイズムの権化のようなハンス・リヒター宅に訪問したり、(あとブラッケージ宅にも訪問)、完全アメリカナイズすれすれ感が面白い、、ま、ラストリールで

 

 

レノン&ヨーコのギブ・ピース・ア・チャンスに持っていくのは、アンビバレンスだと思ったけど、戦争被害者のアウトローストレンジャー、のメカスならではのセレクトだと思ったけど、雨降って来たので帰る!!

 

 

ふだん映画館でグッズとか買わないけど、今回はめずらしくポスター、

 

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第4映画 #8

 
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ハンセン病については、あまり知らなかった。もう20年前ほどだが、一度奈良のハンセン病病院の廃墟を見た(連れあいにそう告げられた)。中には入れなかったし、時間もなかったので、通りすぎだだけも同じだ。しかし、その一瞬に近い遭遇(出会い損ねとしての出会い)は記憶の底の底に残って、さんさんと光が降りる林の深い緑にぼんやりと確認できる古病棟の映像だけは脳裡に残っていた(いわゆる残像)。

2018年に清瀬市の病院街に行った。ここは東京都が意図的に設けた隔離病棟が林立していたという歴史がある。雰囲気は決して明るくはなく、人もあまりあるいていない。店舗もなく、点在するバス停留所がその存在をもてあますように佇んでいた。その時、清瀬市在住の連れあいに案内してもらった多磨全生園は衝撃的だった。おそらく日本国内ではいちばん規模の大きいハンセン病施設なのではないだろうか。

その施設は一種のハンセン病患者の自治都市のようになっていたらしく、その残骸が散見された。神社、寺、教会、園内の公衆電話ネットワーク、そして集合住宅、病棟。(映画館や消防所もあった)。園内に資料館があり、そこがまた充実したところだった。江戸時代か、あるいはもっと前から「お遍路」という長い月日を歩く修行があるが、むかしのハンセン病患者は(もちろん当時は癩と呼ばれていた)自己救済の宗教的儀礼(お遍路を続けると癩が治ると信じられていた)として行脚をつづけていて、その衣装が一番目に飾られていた。あと展示資料は300点以上あり、とてもじっくり見切れるものではないが、そのなかでいちばん印象に残ったのは、包帯を巻き取る機械だった。直径3メートルほどあり、それがハンセン病患者の皮膚崩壊の甚だしさを物語っていた。宮崎駿監督の「もののけ姫」(1997)には包帯を巻いたハンセン病患者が、たたら製鉄(今でいう鉄工所)で働いているシーンがある。あと、ここに書き切れるものでもないので割愛するが、興味ある人は一度足を運んで欲しい。

#8についての説明は、またの機会に譲ろうと思う。これは説明のいる小品なのだ。

 

 

 

 

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https://youtu.be/ABSjvZfDLGc

 

新・映画ノート 14

レディ・ガガのすっぴん顔見たい人は、充分に楽しめる!音楽的にどこがいいのか、さっぱりわからないけど、マイノリティの味方だということはよくわかった。(よくある意見? )

 

ブラッドリー・クーパー

アリー スター誕生 アンコール

2019

@下高井戸シネマ

 

 

前半まあまあ良かったけど、やっぱり長すぎる感が。長さの必然性が。あとシネスコサイズふたり(ガガとブラッドリー・クーパー)がくっつきすぎで画面がずっとベターとしてる。もちろん誉め点もいっぱいあったけど。そしてガガが一瞬イエス(プログレ)のTシャツ着ててなんで?と思った。今日はここまで。

 

映画監督のウィリアム・ウェルマン(小説家の松浦理英子が、というか、も、一時期誉めていた映画監督)が1932年に原作となるものを書いて以来今回4回目の映画化で、これは一種のアメリカにおける反復強迫フロイト)の一種なのだと捉えるのは手っ取り早い。

 

文字通り★starはアメリ星条旗における★でもあり、平俗に言って、成功すること=スターであり、国内的には電通投下概念による「勝ち組」ということになるのだろう。しかし、ガガのそれはたんなるショービズ的成功志向のそれとは一線を画していることはまずもって強調しておいてもよい。

 

 

 

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新・映画ノート 13

新・映画ノート 13

 


◼️

ペリー・ヘンゼル

ハーダー・ゼイ・カム   

1973

 


最初は 小嶋さちほディスク・ジョッキーのNHKFMの 軽音楽をあなたに のレゲエ特集かなんかをmaxellのUD2(カセットテープ)にレコード(録音)したもので聴いていた。そのなかでクリフの数曲がオンエアされた。といっても高校2年のあたりなのでもう昔話だ。このカセットテープこそを残しておくべきだったと思うが、世田谷にあるNHK アーカイブで視聴できるのか。というかそもそも当時のラジオ音源は資料として残してあるのか、わからない。NHK サウンドストリート坂本龍一(または民放の不思議の国の龍一の坂本龍一)あたりはYouTubeにアップロードしてあって、アーカイブのシェアリングというのも、ここ数年は流行りそうである。クラシック・レゲエ(現地でロック・ステディ→スカ→レゲエと発展して一応80年代まで国内で流行)は音楽的にはたいして面白いわけではなく、どちらかというと、イギリスからの植民地解放→独立(1962)以降、一神教的な信仰の対象としてジャマイカに大衆化した、つまり宗教音楽として大衆化したものが日本に輸入されて、なぜかポピュラリティを得た、というのが面白い現象である。裏返せばキリスト教芸術としてのバッハやモーツァルトからハイレ・セラシエ1世信仰としてのレゲエ…(有名どころでは、ボブ・マーレー、ピーター・トッシュ、ジミー・クリフ)が、暴力的に連続していると(半ばバーチュアルに)捉えるとなおさら面白い。もちろん社会システムはちがえど。

 

レゲエ音楽演奏-聴取と民間宗教(またはラスタファリ運動)が密接に結びついていたケースは近代の世俗音楽シーンではレゲエくらいなものではないだろうか。

 

そういうことを改めて視聴覚において確認できる映画が、ハーダー・ゼイ・カム というわけではないが、当時のジャマイカ社会を知る上でも刺激的な内容だった。

 

 

 

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◼️

佐藤純弥 

新幹線大爆破

1975

(以下はTwitterより)

 

◎パニックというより、サスペンス。シナリオ構築しっかりしていて、面白すぎて途中で切って寝た。高倉健のねじれたペシミズムが相変わらずいい(現代劇の方が見ててしっくりくる)、社会のはみ出しものが集まって…という転覆ものだが、犯人の一人はもと三里塚闘争に関わっていたという設定 、

 

◎残り視聴。シナリオが良すぎて、高倉健が「ギャラ半分でいいから」と出演したらしい。ラストは健射殺のネガポジ反転のスローモーション。「ヤバい!間に合わねえ!」の連続で成立している有限リミット・ドキハラ・パニック・サスペンスwith 新幹線の高速轟音、人に安心してすすめられるぜ映画かも

 

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第4映画 #6

天皇即位のニュースの裏側では、南米北端の国、ベネズエラのカラカスで大統領打倒のクーデターが起こっていた。ベネズエラの惨状について知る者も多いと思うが、2018年の時点で、国民の一割、つまり10人に1人がコロンビアなどの近隣諸国へと移民として向かう。途中で死ぬものも多いと聞く。表向きは社会主義のこの国では、大統領の汚職や失政からハイパーインフレーションの事態が起きそれが長引くこととなった。ついに紙幣になんの価値もなくなるという事態が起き、まさに国民は金が落ちていても見向きもしないのだ。石油埋蔵量が世界一のこの国で、なぜこんなにひどい事態が続かなければならないのか。そこで民衆蜂起へと国民が向かった。ちなみにもっとも主要な債権国は中国である。このニュースを受けて「第4映画#6」は制作された。

 

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https://youtu.be/cHbSqN_Al4M

新・映画ノート 12

ゴダール

イメージの本  

2018

銀座シネ・スイッチ1

 

 

 

(あー床にスロープついてねえーー前のにいちゃんの頭がじゃま〜)

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となりのおっさんがグレープ風味の飴のにおいをプンプンさせて鑑賞の邪魔だった!そして予告18分は長すぎますわ。。。

 

 

 

◼️ハードディスクに埋設された映像の分子細胞は、永遠に無傷であり、それはまた、永久に手で触れることができない。(フィルムについた傷はどこへ行ったのか? ジャン・ジュネは芸術の起源は傷にある、と言ったのに)。アーカイヴ映像は、すでに多くの傷を伴っており、傷の多さはまた上映回数の多さを物語っていた。それはスプロケットというフィルムを恒常的に送り込む回転軸とともにあった。映画は傷つきやすい子供だったが、しかしそうであることをやめた。なぜならハードディスク(映像の分子細胞)なるものが歴史に登場したからである。

 


◼️映像=真実、また写真=真実というアリバイは、映像からノイズを縮減すること、安定した構図や露出値、被写界深度、焦点で、フレームにあらわれた事物を明瞭に指示することができ、安定した知覚を与えるものでなければならなかった。エフェクトなどはもってのほかだ。映像ドキュメンタリズム、映像ジャーナリズムの是非は、それは真実を伝える、という公約がある限り、この「映像の無傷」言いかえれば「その像がその像であること」の同一性、その強さ、正しさを前提しなければならないものだった。

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◼️イメージの本 においては、スクリーンに映っている所与が、映像なのか原ー映像(アーカイヴの映像)なのかにわかに判断がつきにくい。おそらくすべての映像素材にハイコントラストのエフェクトがかかっており、ゴダールの制作側で撮られたと思われる海の映像(めずらしくシンメトリカルな構図が採用されている)においても、コントラストを上げるばっかりに空が黄色に変色し、海が濃紺に変色し、波頭が緑に変色している 。(このコントラストのエフェクトは今に始まったことではなく、遡ること、1999年、愛の世紀 (原題は 愛の讃歌) から顕著になってくる)。

 


◼️表象による表象の批判、をもっとも過激に試みたジガ・ヴェルトフ集団期に回帰しているのかはともかく、イメージの本においてはハイコントラストによる像の輪郭の把握に遅延が生じることによって、先述したドキメンタリー的価値としての像が一様に廃棄される。(何かが映っている。しかし何が映っているのだろう❓)たんなる像、網膜的抽象性をそのベクトルに内包する反–映像 へと像が恒常的に前進してゆくのだ。

 


◼️ヨーロッパ→アメリカ→アジア という近代(脱近代)の経済的ヘゲモニーのシフトにおいて、もっとも犠牲にあっているのがアラブ圏である。(アフリカと北米はある時期から和解したように思える)。それはアメリカがイスラエルに肩入れすればするほどシリア、レバノンパレスチナを苦しめてきた歴史とともにある。繁栄とその犠牲者。定住者と移民。日本のコンビニの店員の国籍不明性と売買の透明性。世界史的構造の結果。それはまた別のなにかの原因でもあるような、それ。爆発。血みどろ。を模倣する映画的爆発、映画的血みどろ。

 


◼️イメージの本におけるフィルムの傷は、いうまでもなく世界近現代史の傷だ!と強引に締めておきます。おわり。

 

 

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新・映画ノート 11

ジガ・ヴェルトフ集団

ジェーンへの手紙  1974

@渋谷ユーロスペース

 

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◼️ジェーン・フォンダは高校の時に深夜テレビで見たバーバレラ(まあまあエロいSF映画…MTV視聴中かったるくなってザッピングしてたらちょうどエロいシーンが出てきたので覚えている)が最初だが、監督のロジェ・バディムには興味が持てず、ジェーンへの手紙がジェーン認識二作品目となる。政治的女優というよりも実際の活動家だったということも当時は知らなかった。ゴダール全評論全発言2 初版時に購入し、この作品で使用されているコメンタリーの全文が掲載されているが、それを読んであれこれおもうところがあった。しかし長すぎるので途中放棄。そして最近といえば最近、今回の特集上映とまったく同じプログラムのDVD を購入したものの、人に貸したまま放置。中でもジェーンへ手紙だけは、前述したテキスト再録を完全に理解した上で見ようと思い、結果DVD では見ずじまい。なので厳密には今回が初見である。

◼️そんなことどうだっていいじゃん!とはいうものの、作品との遭遇の仕方は小さな出来事の積み重ねでなされるのであり、たんにロードショーで上映されるという映画以外のものたくさんあるのだ!ということは強調しておいてもいい。まず作品ありきとはいえ、あたりまえだけどね。

◼️この中編、マス・メディア(アメリカのエクスプレス紙…今のNEWSWEEKみたいなもん❓)が採用したがる写真の虚偽というか虚偽的な側面を分析しているんだが、とにかく前置きが長い。マルクス毛沢東主義者としてのゴダール&ゴランなので、緻密にして明確なイデオロギー構築が必要だというのは大義的にあったんだと思うけど、それにしてもこの作品の前に「万事快調」1972 をフォンダ(&イヴ・モンタン)を使って撮っているわけでその時の不満というか、撮れなかったX、を撮っているという気がしないでもない。

◼️端的に、マス・メディア→大衆が求める女優ジェーン・フォンダ像とゴダール&ゴランが求める政治活動家像としてのフォンダ像との乖離に対しての分析というニュアンスがややサディスティックに展開される。

◼️次にアメリカン・イデオロギーのひとつとしてヒロイズム(女性なのでヒロイニズム)への懐疑。戦争渦中のベトナムに接近して人民にあれこれ質問し、うつむき加減で悲しむフォンダ像というある種の慈善事業の虚偽的側面にあらわれるような写真表層を分析して、結果的にフォンダの(大げさに言えば)アイデンティティクライシスを催させるようなコメンタリーが続く。

◼️構図から始まって、フォーカシングの分析、アングル(なぜ仰角なのか)の分析、そして表情のアナロジー分析(ここでジェーンの実父にあたるヘンリー・フォンダの写真が登場する)など、足早にリストアップしていくんだけど、ここがこの映画のハイライトだと思うな。

◼️まあしかし、ずっと写真の静止画面の羅列が続く中での二者(ゴダール/ゴラン)の声が淡々とクールに被さってそれがものすごくカッコよかった。それはやはりゴダール&ゴランの政治的倫理というか、きわめて正常なマナーである。フォンダ親子という二世代にわたる(ちなみにピーター・フォンダは弟)アメリカの当時の象徴偶像を徹底的に愚弄中傷したい、と同時に、いや、それは露骨にやってはいけない、なぜなら悪いのはフォンダ自身ではなく、雑誌ジャーナリズムや写真家を含むマス・メディアの下劣なやり方のだから、、という逡巡が垣間見て取れるからだと思う。

◼️いずれにしても頑張ってほしい。という簡潔なエールで終わるこの中編は、結果フォンダを続行して応援するという構図で終わるのだが、しかして当のジェーン・フォンダはこの映画をちゃんと見たのだろうか❓  現在81歳、どこでなにをしているのだろう。

 

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新・映画ノート 10

ジガ・ヴェルトフ集団

イタリアにおける闘争

1969

@ユーロスペース渋谷

 

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↑主演のクリスチャーナ・トゥリオ・アルタン

 

◼️DVD で3回見たがスクリーン画面では初めて。以前から気づいていたことも含めて改めて確認しながら視聴した。1969年に撮られた長編の「東風」の次に制作されているが、引き続き黒画面(何も映っていない非表象の画面)への執拗な問いと、単語を反復しながらの間歇的な(空白/沈黙を導入しながらの)パーツをうまく残しながら映画そのものが緊張感を高めていく。

◼️第1部、第2部、第3部といちおう構成されていて、第3部では第1部、第2部への再言及(映像の使い回しもかなり多い)および、映画全体への自己言及がエスカレートして行く。ここでメタ映画的な様相を帯びてきて、これも「東風」の反復といえば反復。

◼️イタリアの女学生が主人公であり、社会変革というイデア(理念)を抱えているがゆえの矛盾が露呈し、その矛盾を止揚するという単純といえば単純な構図が後半部にかなり意識的に扱われる。

◼️セーターを買うという行為と労働者に知識を教えるという行為、アジビラを作る行為とスープを食べるという行為、さまざな行為を含む生活の全体があり、そのなかで女学生はあれこれ言及してゆく。それは問いと答えの絶えざる作り直しであり、問いと答えの目的/着地点を同時に拒否することでもある。

◼️カール・マルクスの有名なテーゼ「存在が意識を決定するのであり、その逆ではない」がなんども発話され、観念論者への攻撃もまた同時に頻発する。

◼️ブティックで服選びをするシーンが断続して現れる(売り子はアンヌ・ヴィアゼムスキーだ)のだが、第3部においてメタ映画化してゆくときに、【「この青いセーターは、 私に似合う」=幻想】という次元がナレーションで説明され、商品を購入するのではなく、商品が私に与える幻想を私が購入する、という資本主義的商品経済が内側にかかえ持つトリック(ギー・ドゥボールがいうなればスペクタクルとしての商品)を暴いてゆく。

◼️というように、東風ではアメリカ映画(西部劇)の表象が攻撃にさらされていたが、ここではイタリアの日常生活(労働と生活の繰り返し)を舞台に諸イデオロギー分析され、批判されてゆく。

◼️それにしても1969年のこの二本に見られる、随所に間歇的リズムを導入し、美学的に昇華させているだろう映像/音響の組織形態にかなりの陶酔感を感じているのはオレだけか❓視聴覚経験として、これがかなり心地よい+かっこいいのであり、セリフの内容を無視すればするほどすぐれた音楽に聴こえるのだった。(まあイタリア語がかなり心地よいというのもあるけど)

 

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新・映画ノート9

ジガ・ヴェルトフ集団

ブリティッシュ・サウンズ  1969

@ユーロスペース

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◼️以前YouTubeに小分けにアップロードしてあったものを本ブログのエントリーにリンクを貼っておいたがいつのまにか削除されていて、そののちヴェルトフ集団の日本版DVD が出るまで未見。今回(いちおうの)大画面で観るのは初めてであった。

◼️前回見たPravdaよりも構成がすっきりしていた。簡潔に言うと「1●労働(フォードの工場)2●女(全裸で部屋をうろうろ)3●労働(前歯の抜けたちょっとヤバそうな青年のモノローグ)4●学生(ビートルズの替え歌でプロバガンダ・ソングを作っている)

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◼️3と4のシーンの間に実際の諸ジャンルの労働シーン(おもに道路舗装がメインか)の断片が挿入され、流れを寸断しながら映画を多面的にしていく。

◼️●4のあとにユニオン・ジャック(英国旗)の中心を拳が突き破る有名なシーンが連続して続く。

◼️最後は字幕 【no end to class struggle  階級闘争に終わりはない 】というメッセージで締めくくられる。

◼️自分の時代はジガ・ヴェルトフ時代のゴダールってほんとに観れなかったので今の20代とかその意味でほんと羨ましいというか[ゴダール映画環境]いいなあと思う。

◼️この映画でもっとも言及しなければならないのは声の構成かもしれない、と思われるほどに声のトーン、バランスが素晴らしかった(これもDVD でダラダラ見ていても感じ取れなかった)。子供にやたら専門語を交えたイデオロギー的なテクストを読ます、というか成人の声を模倣させて読ますのだが、これがまず唯物論的な達成であり、声のキメ(ロラン・バルト)の多層性、その美学的達成だったように思う。

◼️学生たちが、本気で社会革命を起こそうと思っていても、なぜか遊び半分となるしかないのか、ビートルズの曲を使って替え歌のプロパガンダソングを複数人で作っているシーンが微笑ましかった。実際1969年は、革命の季節からはややズレていて、1968年の五月革命の挫折後の話なのでちょっと間のの抜けた、ユーモラスな感じになっているのだろうか。

◼️時期的にビートルズの解散直後だと思うがYou say yes  , I say no.(ハロー・グッドバイ)をUSA, I say MAO.と変えて歌い、五月革命挫折後の状況でも毛沢東の影響が残っていることを如実に知らしめている。

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◼️うーんしばらくは週に一回は大画面で観続けたい映画だ。

◼️あと冒頭の自動車工場の横移動の長回しは必見(ゴダールの横移動はホント素晴らしい‼︎)。工場の内空間の巨大さ、そこでの作業音のキレキレな交錯的響き方、が見事に直喩的にex-press(外へ− 印刷/表現)されています。

Writing@つつじヶ丘  今日は寒い!

22世紀にはもう映画館は消滅しているかもしれないし、調布市長選挙(先週)には行っていない!

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新・映画ノート 8

◼️地味なおっさんがほとんどでいかにも血管切れそうな若者が絶無なのが残念だが、

ユーロスペース@渋谷でゴダール&ゴラン(+数名)期(ジガ・ヴェルトフ集団)のPravda(プラウダ)1969。

◼️20代の頃(ちなみにワタシ1969年生まれ)はもう見たくて見たくて仕方がないにもかかわらずまったく見る機会がなかったので、スチール写真見て妄想して自分で動かすしかなかった時期の映画の1つだ。

◼️たしか20代半ばにアテネフランセで同じく1969年制作の『東風』観て衝撃のあまりメガネを紛失したが、今回は東風の免疫もあって、紛失ゼロ盗難ゼロ痴漢被害ゼロであるばかりかだいぶウトウトしながら終幕を迎えた。……ナレーションの女性の声が導眠剤的声

◼️ゴダール&ゴランは1969年になんと4本も撮っているのだが、こういう作り方だったらワンシーズンに一本作れるかなという~絶対的にいい意味で~ラディカルでスピーディーでコンビニエンスでライトリー(軽やか)で、しかしこの上なくエッセンシャルに暴力的な方法。

◼️ついにタイトルもクレディットも一切あらわれないのも衝撃といえば衝撃でアメリカ帝国資本主義的映画における膨大な量、しかも字が小さすぎて読めないクレジット風体(しかしあそこにクレジットされないと仕事が回ってこないという意味でのクレジット~信用書~みたいなもの)とは完全に真逆でゴダール&ゴランの匿名的意気込みがうかがえたりする。(こういう匿名性の方がはるかにカッコいい)

◼️ この時期のゴダールの映画を見ていると(いつもながら)物語映画を見ているよりも、多くの可能性を感じる。そのへんにある雑誌をビリっと破って、そのへんに転がっているフェルトペンでチャチャっとメッセージを書き込んでそれをベッドの枕元に一定期間溜め込んでおき、適宜適時に撮影を始めればいい。そのかわりにゴダールが常にフル回転で注力しているのが思考であり思考の練磨とそれらのストックと編集なのだ、(そう、ゴダールはもちろん映像と音響を編集しているわけだが、それ以前に膨大にストックした思考を編集しているのだ←⭐️ここ重要)

◼️ 1969年に制作されたのは●ブリティッシュ・サウンズ(撮影2月)●プラウダ(撮影5月)●東風(撮影4~7月)●イタリアにおける闘争(撮影12月)

 

 

 

(もう気が狂いそうくらいうるさい渋谷の居酒屋で   2019-4–21 18:35 )


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↑特権的に現れるバラのショット

ジェイムス・モナコがこのショットについて分析を試みている
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新・映画ノート 7

 

 

 

 

クリス・マルケルってSFの古典とも言われるラ・ジュテを見て、ぜんぜんつまらなかったし、あまり興味わかなかったけど、1982年にしては、わりあい新奇なスタンスで撮られた旅映画サン・ソレイユ はメカスっぽくもあり とべない沈黙(黒木和雄)っぽくもあった、、 しかしサン・ソレイユって日本語訳したら「太陽・太陽」でいいんですかね?まさか! (以下はTwitterより転送)

 

 

 

 

 

@渋谷ユーロスペース
クリス・マルケル
サン・ソレイユ
あー長かった

 

クリス・マルケルの映画は 短編の ラ・ジュテ と 短編オムニバスのベトナムから遠く離れて の一編 しか既観でなく 長編ははじめて 、、受付で席選ぶとき、pc画面でe6 を指タッチし、なんの反応もないのでもう一度押すと 受付嬢に「言ってください」と言われている時点で酔いが抜けていなかったとも言え

 

 

 

るが、まずまずいい映画だった、、アレクサンドル・コジェーブの日本的スノッブアメリカ的動物化という図式のアレンジともいえる(かもしれない)、、アフリカ的原始主義と日本的電子洗練主義の二項で展開しつつ第3項のなんだかよくわからない国の砂漠とか唐突になされるキリンの射殺とか戦争のメタ

 

 

 

ファーともいえる映像が準備される、、しかしそこにおさまるのではなく日本ーアフリカの二項を通底させるために日本的霊性とアフリカ的呪術で概念的架橋を試みている、、前者では豪徳寺の招き猫の人形、および人形供養阿波踊り、男根崇拝(秘宝館のものも含め)などがとりあげられる。アフリカ側のそ

 

 

れは言語化できるものではなく、動物の仮面を被ったアニミスティックな儀式が展開されたりする、、図式的にはこういうフレームがあり、時折山谷の底辺労働者やかずかずの動物(マルケルお気に入りのネコと梟)の断片が挿入され観客を和ませる、、しかし、重要なのはこの図式を単一の閉じたフレームとして、

 

 

 

扱い、というよりもひとつのレイヤーとして捉え、音響面また画像面でmade in Japan の電子機器その黎明期のものが扱われている点だと言える、、クレジットにIsao Tomita とあったことからムーグシンセの手弾きは彼の手によるものだろう、、しかもこれがあまりにもしつこく現れるのでうんざりしたことも

 

 

 

 

事実だ、、今ではレトロ・フューチャーともいえるかつてのモダニズムの遺産回顧は過剰になりすぎるとこうもうんざりするものかと思った次第である、、(アーケードゲームパックマンとかは趣味的に良かった)、、マルケル監督はどうもビデオ・エフェクトのソラリゼーションが大好きであり、それを多用

 

 

 

 

した画面がこれでもかと出てくる、、(なにか具象的なものをソラリゼーションが一気に抽象化してくれる表象だと心から信じてるようだ)、、まあ1982年の映画を2019年に観ているのだからレトロ・フューチャー視点それ自体の古さがどうしようも画面を覆っていて、たんに電子大国日本の強調に終わっていて

 

 

 

 

そこが中途半端に新鮮でもあり既視感もあった、、…それはそうと今渋谷で飲み食いしながらiPadで書いているんだが、酔いがまた回ってきて、店内も若者の熱気であつく、たんに暑いのでいったんこのあたりで、、まあいい映画だったことは確かですよーーーーん🐈 

 

 

 

 


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新・映画ノート 6

◼️  凡作ではないけど、愚作でもない、、『私はマリア・カラス』は未来展望、未来志向的なアーカイヴ映画であるにせよ、後半は恋愛回顧に偏りすぎていて、どうか❓と思う 、やはり音楽に映像がくっつくと、音楽の純粋聴覚性は半減する、、だってマリア・カラスだもん! (以下Twitterより転送)

 

 

 

1⭕️年配層が多すぎて、若者がいなさすぎ…まあ映画館は住宅街メインの土地柄しかたないかもしれないけど、オペラという保守的、因襲的なソーシャルがそもそも若者層を取り込むことをやめちゃってるのかなあ…とかなんとか

 


2⭕️ とはいえ監督のトム・ヴォルフ(ロシア生まれフランス育ち)は若手っぽく、ニューヨークに拠点をうつしたところ、そこでカラスの歌声に魅了されたもよう、、というように実は聴く機会が少ないだけでオペラってまだまだ(ロックやポップスに比べて)相対人口は増えるような気がするな、、クラシックの延長で聴く流れはまあ正統だと思うけど、、

 


3⭕️映画はまあいろいろ賛否あるけど、歌声は何度も聴いていて、フッテージYouTubeにたくさんあるのでたまに見ていた(たしかブレヒト三文オペラでも歌ったと記憶してるんだが、それは登場せず)、、

 

 

 

4 ⭕️ 万葉集にせよ、ギリシャ悲劇にせよやっぱり古代中の古代から(非メロディ的にではあれ)歌うという行為はあって、それはどうしようもなく普遍的なことなんだけど、一方でポップス消費→カラオケ消費→エネルギー消費という回路の消費的一回性(消費的一回性の確率論的結果が(時代)と呼ばれたりするのは否めないけど)があり、次々に歌の肥満性を回避してゆく回路がある、、

 

 

 


5⭕️後期ルネッサンス期のフィレンツェギリシャ悲劇を復活させようという動きがペリー二を主としてあり、それがワーグナーを経由してニーチェヘルダーリンひいてはパゾリーニパゾリーニの王女メディアにカラスは主演、、映画の中でパゾリーニ登場)につながっていくんだと思うけど、そういう系譜でアメリカニューヨーク生まれ育ちのカラスを捉え直す必要はあると思うな、、

 

 


6⭕️まあ、3年かけて世界中の遺物映像を探し、つなぎ合わせていろんな関係者と会ってインタビュー(60時間)してそれもつなぎ合わせて、そりゃあマリア・カラスだからなにをどう繋げても同じような感じになるとは予想できたと思う、、

 

 

 


7⭕️残念なのは封印されていたラブレターから後半恋愛回顧ものに展開していったこと(夫のギリシャの富豪オナシスがケネディ大統領の未亡人ジャクリーンと結婚したっつのは大きな物語だとは思うけど、、まあこれがないとこの映画の売りがなく、オバサン層を取り込めないとわかっていても、ちょっと頼りすぎているなと思ったね、、(もちろん監督は音楽そのものよりもカラスその人に興味あるとも…)

 

 

 

 

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愛しのパゾリーニ監督とカラス様、、、カラス様の映画デビューが「王女メディア」 の主役だったのだ!