新・映画ノート 12

ゴダール

イメージの本  

2018

銀座シネ・スイッチ1

 

 

 

(あー床にスロープついてねえーー前のにいちゃんの頭がじゃま〜)

f:id:imagon:20190501194013j:image

となりのおっさんがグレープ風味の飴のにおいをプンプンさせて鑑賞の邪魔だった!そして予告18分は長すぎますわ。。。

 

 

 

◼️ハードディスクに埋設された映像の分子細胞は、永遠に無傷であり、それはまた、永久に手で触れることができない。(フィルムについた傷はどこへ行ったのか? ジャン・ジュネは芸術の起源は傷にある、と言ったのに)。アーカイヴ映像は、すでに多くの傷を伴っており、傷の多さはまた上映回数の多さを物語っていた。それはスプロケットというフィルムを恒常的に送り込む回転軸とともにあった。映画は傷つきやすい子供だったが、しかしそうであることをやめた。なぜならハードディスク(映像の分子細胞)なるものが歴史に登場したからである。

 


◼️映像=真実、また写真=真実というアリバイは、映像からノイズを縮減すること、安定した構図や露出値、被写界深度、焦点で、フレームにあらわれた事物を明瞭に指示することができ、安定した知覚を与えるものでなければならなかった。エフェクトなどはもってのほかだ。映像ドキュメンタリズム、映像ジャーナリズムの是非は、それは真実を伝える、という公約がある限り、この「映像の無傷」言いかえれば「その像がその像であること」の同一性、その強さ、正しさを前提しなければならないものだった。

f:id:imagon:20190501205136j:image


◼️イメージの本 においては、スクリーンに映っている所与が、映像なのか原ー映像(アーカイヴの映像)なのかにわかに判断がつきにくい。おそらくすべての映像素材にハイコントラストのエフェクトがかかっており、ゴダールの制作側で撮られたと思われる海の映像(めずらしくシンメトリカルな構図が採用されている)においても、コントラストを上げるばっかりに空が黄色に変色し、海が濃紺に変色し、波頭が緑に変色している 。(このコントラストのエフェクトは今に始まったことではなく、遡ること、1999年、愛の世紀 (原題は 愛の讃歌) から顕著になってくる)。

 


◼️表象による表象の批判、をもっとも過激に試みたジガ・ヴェルトフ集団期に回帰しているのかはともかく、イメージの本においてはハイコントラストによる像の輪郭の把握に遅延が生じることによって、先述したドキメンタリー的価値としての像が一様に廃棄される。(何かが映っている。しかし何が映っているのだろう❓)たんなる像、網膜的抽象性をそのベクトルに内包する反–映像 へと像が恒常的に前進してゆくのだ。

 


◼️ヨーロッパ→アメリカ→アジア という近代(脱近代)の経済的ヘゲモニーのシフトにおいて、もっとも犠牲にあっているのがアラブ圏である。(アフリカと北米はある時期から和解したように思える)。それはアメリカがイスラエルに肩入れすればするほどシリア、レバノンパレスチナを苦しめてきた歴史とともにある。繁栄とその犠牲者。定住者と移民。日本のコンビニの店員の国籍不明性と売買の透明性。世界史的構造の結果。それはまた別のなにかの原因でもあるような、それ。爆発。血みどろ。を模倣する映画的爆発、映画的血みどろ。

 


◼️イメージの本におけるフィルムの傷は、いうまでもなく世界近現代史の傷だ!と強引に締めておきます。おわり。

 

 

f:id:imagon:20190501205142j:image

 

 

 

 

 

新・映画ノート 11

ジガ・ヴェルトフ集団

ジェーンへの手紙  1974

@渋谷ユーロスペース

 

f:id:imagon:20190430230705j:imagef:id:imagon:20190430230712j:imagef:id:imagon:20190430230718j:image
◼️ジェーン・フォンダは高校の時に深夜テレビで見たバーバレラ(まあまあエロいSF映画…MTV視聴中かったるくなってザッピングしてたらちょうどエロいシーンが出てきたので覚えている)が最初だが、監督のロジェ・バディムには興味が持てず、ジェーンへの手紙がジェーン認識二作品目となる。政治的女優というよりも実際の活動家だったということも当時は知らなかった。ゴダール全評論全発言2 初版時に購入し、この作品で使用されているコメンタリーの全文が掲載されているが、それを読んであれこれおもうところがあった。しかし長すぎるので途中放棄。そして最近といえば最近、今回の特集上映とまったく同じプログラムのDVD を購入したものの、人に貸したまま放置。中でもジェーンへ手紙だけは、前述したテキスト再録を完全に理解した上で見ようと思い、結果DVD では見ずじまい。なので厳密には今回が初見である。

◼️そんなことどうだっていいじゃん!とはいうものの、作品との遭遇の仕方は小さな出来事の積み重ねでなされるのであり、たんにロードショーで上映されるという映画以外のものたくさんあるのだ!ということは強調しておいてもいい。まず作品ありきとはいえ、あたりまえだけどね。

◼️この中編、マス・メディア(アメリカのエクスプレス紙…今のNEWSWEEKみたいなもん❓)が採用したがる写真の虚偽というか虚偽的な側面を分析しているんだが、とにかく前置きが長い。マルクス毛沢東主義者としてのゴダール&ゴランなので、緻密にして明確なイデオロギー構築が必要だというのは大義的にあったんだと思うけど、それにしてもこの作品の前に「万事快調」1972 をフォンダ(&イヴ・モンタン)を使って撮っているわけでその時の不満というか、撮れなかったX、を撮っているという気がしないでもない。

◼️端的に、マス・メディア→大衆が求める女優ジェーン・フォンダ像とゴダール&ゴランが求める政治活動家像としてのフォンダ像との乖離に対しての分析というニュアンスがややサディスティックに展開される。

◼️次にアメリカン・イデオロギーのひとつとしてヒロイズム(女性なのでヒロイニズム)への懐疑。戦争渦中のベトナムに接近して人民にあれこれ質問し、うつむき加減で悲しむフォンダ像というある種の慈善事業の虚偽的側面にあらわれるような写真表層を分析して、結果的にフォンダの(大げさに言えば)アイデンティティクライシスを催させるようなコメンタリーが続く。

◼️構図から始まって、フォーカシングの分析、アングル(なぜ仰角なのか)の分析、そして表情のアナロジー分析(ここでジェーンの実父にあたるヘンリー・フォンダの写真が登場する)など、足早にリストアップしていくんだけど、ここがこの映画のハイライトだと思うな。

◼️まあしかし、ずっと写真の静止画面の羅列が続く中での二者(ゴダール/ゴラン)の声が淡々とクールに被さってそれがものすごくカッコよかった。それはやはりゴダール&ゴランの政治的倫理というか、きわめて正常なマナーである。フォンダ親子という二世代にわたる(ちなみにピーター・フォンダは弟)アメリカの当時の象徴偶像を徹底的に愚弄中傷したい、と同時に、いや、それは露骨にやってはいけない、なぜなら悪いのはフォンダ自身ではなく、雑誌ジャーナリズムや写真家を含むマス・メディアの下劣なやり方のだから、、という逡巡が垣間見て取れるからだと思う。

◼️いずれにしても頑張ってほしい。という簡潔なエールで終わるこの中編は、結果フォンダを続行して応援するという構図で終わるのだが、しかして当のジェーン・フォンダはこの映画をちゃんと見たのだろうか❓  現在81歳、どこでなにをしているのだろう。

 

f:id:imagon:20190430230733j:image

新・映画ノート 10

ジガ・ヴェルトフ集団

イタリアにおける闘争

1969

@ユーロスペース渋谷

 

f:id:imagon:20190429220658j:image

↑主演のクリスチャーナ・トゥリオ・アルタン

 

◼️DVD で3回見たがスクリーン画面では初めて。以前から気づいていたことも含めて改めて確認しながら視聴した。1969年に撮られた長編の「東風」の次に制作されているが、引き続き黒画面(何も映っていない非表象の画面)への執拗な問いと、単語を反復しながらの間歇的な(空白/沈黙を導入しながらの)パーツをうまく残しながら映画そのものが緊張感を高めていく。

◼️第1部、第2部、第3部といちおう構成されていて、第3部では第1部、第2部への再言及(映像の使い回しもかなり多い)および、映画全体への自己言及がエスカレートして行く。ここでメタ映画的な様相を帯びてきて、これも「東風」の反復といえば反復。

◼️イタリアの女学生が主人公であり、社会変革というイデア(理念)を抱えているがゆえの矛盾が露呈し、その矛盾を止揚するという単純といえば単純な構図が後半部にかなり意識的に扱われる。

◼️セーターを買うという行為と労働者に知識を教えるという行為、アジビラを作る行為とスープを食べるという行為、さまざな行為を含む生活の全体があり、そのなかで女学生はあれこれ言及してゆく。それは問いと答えの絶えざる作り直しであり、問いと答えの目的/着地点を同時に拒否することでもある。

◼️カール・マルクスの有名なテーゼ「存在が意識を決定するのであり、その逆ではない」がなんども発話され、観念論者への攻撃もまた同時に頻発する。

◼️ブティックで服選びをするシーンが断続して現れる(売り子はアンヌ・ヴィアゼムスキーだ)のだが、第3部においてメタ映画化してゆくときに、【「この青いセーターは、 私に似合う」=幻想】という次元がナレーションで説明され、商品を購入するのではなく、商品が私に与える幻想を私が購入する、という資本主義的商品経済が内側にかかえ持つトリック(ギー・ドゥボールがいうなればスペクタクルとしての商品)を暴いてゆく。

◼️というように、東風ではアメリカ映画(西部劇)の表象が攻撃にさらされていたが、ここではイタリアの日常生活(労働と生活の繰り返し)を舞台に諸イデオロギー分析され、批判されてゆく。

◼️それにしても1969年のこの二本に見られる、随所に間歇的リズムを導入し、美学的に昇華させているだろう映像/音響の組織形態にかなりの陶酔感を感じているのはオレだけか❓視聴覚経験として、これがかなり心地よい+かっこいいのであり、セリフの内容を無視すればするほどすぐれた音楽に聴こえるのだった。(まあイタリア語がかなり心地よいというのもあるけど)

 

f:id:imagon:20190429220710j:image

 

 

 

新・映画ノート9

ジガ・ヴェルトフ集団

ブリティッシュ・サウンズ  1969

@ユーロスペース

f:id:imagon:20190427222009j:image


◼️以前YouTubeに小分けにアップロードしてあったものを本ブログのエントリーにリンクを貼っておいたがいつのまにか削除されていて、そののちヴェルトフ集団の日本版DVD が出るまで未見。今回(いちおうの)大画面で観るのは初めてであった。

◼️前回見たPravdaよりも構成がすっきりしていた。簡潔に言うと「1●労働(フォードの工場)2●女(全裸で部屋をうろうろ)3●労働(前歯の抜けたちょっとヤバそうな青年のモノローグ)4●学生(ビートルズの替え歌でプロバガンダ・ソングを作っている)

f:id:imagon:20190427222024j:image

◼️3と4のシーンの間に実際の諸ジャンルの労働シーン(おもに道路舗装がメインか)の断片が挿入され、流れを寸断しながら映画を多面的にしていく。

◼️●4のあとにユニオン・ジャック(英国旗)の中心を拳が突き破る有名なシーンが連続して続く。

◼️最後は字幕 【no end to class struggle  階級闘争に終わりはない 】というメッセージで締めくくられる。

◼️自分の時代はジガ・ヴェルトフ時代のゴダールってほんとに観れなかったので今の20代とかその意味でほんと羨ましいというか[ゴダール映画環境]いいなあと思う。

◼️この映画でもっとも言及しなければならないのは声の構成かもしれない、と思われるほどに声のトーン、バランスが素晴らしかった(これもDVD でダラダラ見ていても感じ取れなかった)。子供にやたら専門語を交えたイデオロギー的なテクストを読ます、というか成人の声を模倣させて読ますのだが、これがまず唯物論的な達成であり、声のキメ(ロラン・バルト)の多層性、その美学的達成だったように思う。

◼️学生たちが、本気で社会革命を起こそうと思っていても、なぜか遊び半分となるしかないのか、ビートルズの曲を使って替え歌のプロパガンダソングを複数人で作っているシーンが微笑ましかった。実際1969年は、革命の季節からはややズレていて、1968年の五月革命の挫折後の話なのでちょっと間のの抜けた、ユーモラスな感じになっているのだろうか。

◼️時期的にビートルズの解散直後だと思うがYou say yes  , I say no.(ハロー・グッドバイ)をUSA, I say MAO.と変えて歌い、五月革命挫折後の状況でも毛沢東の影響が残っていることを如実に知らしめている。

f:id:imagon:20190427222041j:image

◼️うーんしばらくは週に一回は大画面で観続けたい映画だ。

◼️あと冒頭の自動車工場の横移動の長回しは必見(ゴダールの横移動はホント素晴らしい‼︎)。工場の内空間の巨大さ、そこでの作業音のキレキレな交錯的響き方、が見事に直喩的にex-press(外へ− 印刷/表現)されています。

Writing@つつじヶ丘  今日は寒い!

22世紀にはもう映画館は消滅しているかもしれないし、調布市長選挙(先週)には行っていない!

f:id:imagon:20190427222057j:imagef:id:imagon:20190427222105j:imagef:id:imagon:20190427222131j:imagef:id:imagon:20190427222152p:imagef:id:imagon:20190427222704j:image

 

 

 

新・映画ノート 8

◼️地味なおっさんがほとんどでいかにも血管切れそうな若者が絶無なのが残念だが、

ユーロスペース@渋谷でゴダール&ゴラン(+数名)期(ジガ・ヴェルトフ集団)のPravda(プラウダ)1969。

◼️20代の頃(ちなみにワタシ1969年生まれ)はもう見たくて見たくて仕方がないにもかかわらずまったく見る機会がなかったので、スチール写真見て妄想して自分で動かすしかなかった時期の映画の1つだ。

◼️たしか20代半ばにアテネフランセで同じく1969年制作の『東風』観て衝撃のあまりメガネを紛失したが、今回は東風の免疫もあって、紛失ゼロ盗難ゼロ痴漢被害ゼロであるばかりかだいぶウトウトしながら終幕を迎えた。……ナレーションの女性の声が導眠剤的声

◼️ゴダール&ゴランは1969年になんと4本も撮っているのだが、こういう作り方だったらワンシーズンに一本作れるかなという~絶対的にいい意味で~ラディカルでスピーディーでコンビニエンスでライトリー(軽やか)で、しかしこの上なくエッセンシャルに暴力的な方法。

◼️ついにタイトルもクレディットも一切あらわれないのも衝撃といえば衝撃でアメリカ帝国資本主義的映画における膨大な量、しかも字が小さすぎて読めないクレジット風体(しかしあそこにクレジットされないと仕事が回ってこないという意味でのクレジット~信用書~みたいなもの)とは完全に真逆でゴダール&ゴランの匿名的意気込みがうかがえたりする。(こういう匿名性の方がはるかにカッコいい)

◼️ この時期のゴダールの映画を見ていると(いつもながら)物語映画を見ているよりも、多くの可能性を感じる。そのへんにある雑誌をビリっと破って、そのへんに転がっているフェルトペンでチャチャっとメッセージを書き込んでそれをベッドの枕元に一定期間溜め込んでおき、適宜適時に撮影を始めればいい。そのかわりにゴダールが常にフル回転で注力しているのが思考であり思考の練磨とそれらのストックと編集なのだ、(そう、ゴダールはもちろん映像と音響を編集しているわけだが、それ以前に膨大にストックした思考を編集しているのだ←⭐️ここ重要)

◼️ 1969年に制作されたのは●ブリティッシュ・サウンズ(撮影2月)●プラウダ(撮影5月)●東風(撮影4~7月)●イタリアにおける闘争(撮影12月)

 

 

 

(もう気が狂いそうくらいうるさい渋谷の居酒屋で   2019-4–21 18:35 )


f:id:imagon:20190423101626j:image

↑特権的に現れるバラのショット

ジェイムス・モナコがこのショットについて分析を試みている
f:id:imagon:20190423101818j:image
f:id:imagon:20190423101833j:image




新・映画ノート 7

 

 

 

 

クリス・マルケルってSFの古典とも言われるラ・ジュテを見て、ぜんぜんつまらなかったし、あまり興味わかなかったけど、1982年にしては、わりあい新奇なスタンスで撮られた旅映画サン・ソレイユ はメカスっぽくもあり とべない沈黙(黒木和雄)っぽくもあった、、 しかしサン・ソレイユって日本語訳したら「太陽・太陽」でいいんですかね?まさか! (以下はTwitterより転送)

 

 

 

 

 

@渋谷ユーロスペース
クリス・マルケル
サン・ソレイユ
あー長かった

 

クリス・マルケルの映画は 短編の ラ・ジュテ と 短編オムニバスのベトナムから遠く離れて の一編 しか既観でなく 長編ははじめて 、、受付で席選ぶとき、pc画面でe6 を指タッチし、なんの反応もないのでもう一度押すと 受付嬢に「言ってください」と言われている時点で酔いが抜けていなかったとも言え

 

 

 

るが、まずまずいい映画だった、、アレクサンドル・コジェーブの日本的スノッブアメリカ的動物化という図式のアレンジともいえる(かもしれない)、、アフリカ的原始主義と日本的電子洗練主義の二項で展開しつつ第3項のなんだかよくわからない国の砂漠とか唐突になされるキリンの射殺とか戦争のメタ

 

 

 

ファーともいえる映像が準備される、、しかしそこにおさまるのではなく日本ーアフリカの二項を通底させるために日本的霊性とアフリカ的呪術で概念的架橋を試みている、、前者では豪徳寺の招き猫の人形、および人形供養阿波踊り、男根崇拝(秘宝館のものも含め)などがとりあげられる。アフリカ側のそ

 

 

れは言語化できるものではなく、動物の仮面を被ったアニミスティックな儀式が展開されたりする、、図式的にはこういうフレームがあり、時折山谷の底辺労働者やかずかずの動物(マルケルお気に入りのネコと梟)の断片が挿入され観客を和ませる、、しかし、重要なのはこの図式を単一の閉じたフレームとして、

 

 

 

扱い、というよりもひとつのレイヤーとして捉え、音響面また画像面でmade in Japan の電子機器その黎明期のものが扱われている点だと言える、、クレジットにIsao Tomita とあったことからムーグシンセの手弾きは彼の手によるものだろう、、しかもこれがあまりにもしつこく現れるのでうんざりしたことも

 

 

 

 

事実だ、、今ではレトロ・フューチャーともいえるかつてのモダニズムの遺産回顧は過剰になりすぎるとこうもうんざりするものかと思った次第である、、(アーケードゲームパックマンとかは趣味的に良かった)、、マルケル監督はどうもビデオ・エフェクトのソラリゼーションが大好きであり、それを多用

 

 

 

 

した画面がこれでもかと出てくる、、(なにか具象的なものをソラリゼーションが一気に抽象化してくれる表象だと心から信じてるようだ)、、まあ1982年の映画を2019年に観ているのだからレトロ・フューチャー視点それ自体の古さがどうしようも画面を覆っていて、たんに電子大国日本の強調に終わっていて

 

 

 

 

そこが中途半端に新鮮でもあり既視感もあった、、…それはそうと今渋谷で飲み食いしながらiPadで書いているんだが、酔いがまた回ってきて、店内も若者の熱気であつく、たんに暑いのでいったんこのあたりで、、まあいい映画だったことは確かですよーーーーん🐈 

 

 

 

 


f:id:imagon:20190415201407j:image

 

 


f:id:imagon:20190415201419j:image

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新・映画ノート 6

◼️  凡作ではないけど、愚作でもない、、『私はマリア・カラス』は未来展望、未来志向的なアーカイヴ映画であるにせよ、後半は恋愛回顧に偏りすぎていて、どうか❓と思う 、やはり音楽に映像がくっつくと、音楽の純粋聴覚性は半減する、、だってマリア・カラスだもん! (以下Twitterより転送)

 

 

 

1⭕️年配層が多すぎて、若者がいなさすぎ…まあ映画館は住宅街メインの土地柄しかたないかもしれないけど、オペラという保守的、因襲的なソーシャルがそもそも若者層を取り込むことをやめちゃってるのかなあ…とかなんとか

 


2⭕️ とはいえ監督のトム・ヴォルフ(ロシア生まれフランス育ち)は若手っぽく、ニューヨークに拠点をうつしたところ、そこでカラスの歌声に魅了されたもよう、、というように実は聴く機会が少ないだけでオペラってまだまだ(ロックやポップスに比べて)相対人口は増えるような気がするな、、クラシックの延長で聴く流れはまあ正統だと思うけど、、

 


3⭕️映画はまあいろいろ賛否あるけど、歌声は何度も聴いていて、フッテージYouTubeにたくさんあるのでたまに見ていた(たしかブレヒト三文オペラでも歌ったと記憶してるんだが、それは登場せず)、、

 

 

 

4 ⭕️ 万葉集にせよ、ギリシャ悲劇にせよやっぱり古代中の古代から(非メロディ的にではあれ)歌うという行為はあって、それはどうしようもなく普遍的なことなんだけど、一方でポップス消費→カラオケ消費→エネルギー消費という回路の消費的一回性(消費的一回性の確率論的結果が(時代)と呼ばれたりするのは否めないけど)があり、次々に歌の肥満性を回避してゆく回路がある、、

 

 

 


5⭕️後期ルネッサンス期のフィレンツェギリシャ悲劇を復活させようという動きがペリー二を主としてあり、それがワーグナーを経由してニーチェヘルダーリンひいてはパゾリーニパゾリーニの王女メディアにカラスは主演、、映画の中でパゾリーニ登場)につながっていくんだと思うけど、そういう系譜でアメリカニューヨーク生まれ育ちのカラスを捉え直す必要はあると思うな、、

 

 


6⭕️まあ、3年かけて世界中の遺物映像を探し、つなぎ合わせていろんな関係者と会ってインタビュー(60時間)してそれもつなぎ合わせて、そりゃあマリア・カラスだからなにをどう繋げても同じような感じになるとは予想できたと思う、、

 

 

 


7⭕️残念なのは封印されていたラブレターから後半恋愛回顧ものに展開していったこと(夫のギリシャの富豪オナシスがケネディ大統領の未亡人ジャクリーンと結婚したっつのは大きな物語だとは思うけど、、まあこれがないとこの映画の売りがなく、オバサン層を取り込めないとわかっていても、ちょっと頼りすぎているなと思ったね、、(もちろん監督は音楽そのものよりもカラスその人に興味あるとも…)

 

 

 

 

f:id:imagon:20190415192116j:image

愛しのパゾリーニ監督とカラス様、、、カラス様の映画デビューが「王女メディア」 の主役だったのだ!

 

 

新・映画ノート 5

 

以下はTwitterより転送

2019年(だいたい)2月3月に観た映画

 

 

 

 

 

■アラン・ロブ=グリエ  

   快楽の漸進的横滑り(1974)

 

 

   @下高井戸シネマ  5分に1回はおっぱいが出てくるおっぱい映画、、巨乳でも貧乳でも無乳でもない普通乳の標準的現れ、、楽しい映画でした、15回ほど寝かかったけどその都度、急激な音響に起こされました、、

 

f:id:imagon:20190331083549j:image

 

 ■   小津安二郎  

        秋日和  (1960)

 

 

最近のコは、ロカビリーだとかプレスリーだとか…というセリフがありそれを体現しているのはめずらしくおキャンな役柄の岡田茉莉子…暇なリーマンの酒の肴にされる女たちのいやーな(今日のフェミニストの神経を逆撫でしそうな)話、そんで里見弴の兄が有島武郎って今知った、

f:id:imagon:20190331083154j:imagef:id:imagon:20190331083200j:image

 

 

 

 ■ステファノ・ソッリマ

 ボーダーライン ソルジャーズ・デイ (2018)

  

 

下高井戸シネマ 時間まちがえてブラブラ散歩してから入館 、全体的に薄明画面で暗すぎるが、それはヘッドライト、テールランプ、に語らせるためか、、デイショットは砂埃、土埃をクリアにフォーカシング、、低空飛行のヘリショットの官能、、

 

 

 

監督のステファノ・ソッリマはイタリア人だけど、顔がなんとなくデニス・ホッパーに似ていて、アメリカ、メキシコ、麻薬 ということでラスト・ムービーなんかを想起させもするが、グロウベル・ローシャなんかも大好きだと思う、

 

 

 

 

始終サウンドエフェクトのドローンが下腹部的に鳴っており、純粋サイレンスのショットが本当に少ない…無意識的盛り上げ効果でうんざりするが、エンディングに2拍のドラムロールっぽくなってその曲は良かった…配給はKADOKAWA角川春樹好みっつうのは痛いほど納得、、眠くはなりませんでした

 

f:id:imagon:20190331085237j:image

 

 

 

 

 ■  エルネスト・ダラナス・セラーノ

セルジオ&セルゲイ 宇宙からハロー(2017)

 

 

駅におりたとたん、またか!とよぎったが@下高井戸シネマセルジオ&セルゲイ 宇宙からハロー、2018 キューバスペイン合作で、観賞中5回ほどウトウト…宇宙と実生活空間とのパラレルモンタージュでなりたっている映画だが、宇宙船シーンのVFXで 見なきゃ!、と、目覚めさせられる、、

 

 

ストーリーらしきものもなく、ゆえにドラマもなく、ということはプロットもない、つまりシーンの推移(寺田寅彦)しかない退屈映画93分、、ひたすらボヤーンと画面を眺めていたが、ロン・パールマンが出てくるシーンでやっぱりトム・ウェイツに似てるわ…といちいち思ったり、7.8年前の

 

 

 

ガーフレと両国に相撲を見にいったことをなぜか思い出し、頭の中はなかなかそういうことで忙しくもあった(そのくらい退屈な映画だった)、、まあ冷戦時代の旧ソ連キューバの話で共産主義体制下の貧しくも楽しい暮らしのなかで、アマチュア無線に興じている青年が宇宙飛行中の無線と周波数を合わせ、

 

 

 

会話を楽しむ、というそれがメインシーンになっている、、そんで青年の口から マルクス・レーニン主義と4回ほど漏れるんだけど、4回も言わすんだったら、著書の一節でも朗読すればいいのに、、と、、ここは商売けゼロのだだ広食堂、、 

 

f:id:imagon:20190331085041j:image

 

 

 ■ファブリス・ドゥ・ベルツ

     変態島(2008)

 

エマニュエル・べアールといえば、リヴェットの美しき諍い女だけど、変態島という映画に主演してると聞き、レンタルやに奇跡的にあったので、play on していたが予告編でお腹いっぱい、、聴いたことあるなあと思ったらデュランデュランのRio、あ、グラビアの美少女だったかも  

 

 

Pale な blue eyed のべアール はいっそうの虚無感、悲愴感を讃えていてハンディショットの緊迫手振れ感がそれに拍車をかける(中期の神代辰巳の映画っぽい)、タイのチンピラパンクス、裏番などキャスティングは冴えまくっている、真面目な映画じゃん、て、まだ前半60分 

 

 

返却日にきづき急観賞、ベルギーのTVあがりの若監督だけど、90%はタイロケで貴種瑠璃譚(折口信夫)の逆バージョン?の真の子探し奔走to未開の島、ラストは顔面白塗りの不気味子供らががウハウハでべアールのおっぱいを触りべアール官能、子探しが母探しに瞬間反転するという親子丼的結晶世界

 

f:id:imagon:20190331082059j:image

 

 

 

 ■アンジェイ・ズラウスキー

    シルバー・グローブ(1989)

 

 

アンジェイ・ズラウスキーの シルバー・グローブ(1988) をストリーミングで、ワイダの助監督を6年もやってたのが信じられない、狂気マジメすぎて(神と人類の関係を観念的に探りすぎ)かえってハチャメなイカレすぎハアハア映画、つーかヤク中のタルコフスキーが撮ったらこうなるのか?

 

f:id:imagon:20190331083723j:image

 

 

 ■ジャン・ヴィゴ  

    アタラント号(1934)

 

またかの@下高井戸シネマアタラント号(ジャン・ヴィゴ)、1934年当時のモロモロがスクリーン(しかもスタンダードサイズ)に映っているというだけで感動、、光景的に好み(港湾、運河、海沿い工業地帯)でさらに感動、短編の競泳選手タリスでもシネマジェニーな水しぶきが記憶にまだあるが、

 

 

ラストの運河走行の空撮ショット(しかもカメラ揺れ揺れ)はじめ水表情の多様がやはりトリュフォー評価を招くの納得度★★音楽好きヴィゴという確信は初めてでラスト近くのシャンソンパレスでのスロット式立ち聴きマシンはじめ蓄音機など博物学的インタレスト(当時の生活様式やも含め)も到来度★★★

 

 

ディタ・パルロ(主演女優さま)ほかキャスト全員好感度★★★★登場😸の可愛さも★★★でもやっぱり顔的にやや嶋田久作似の船乗りのオッサン(オーバーオールが激似合うワーカー)に特別★allstar★いい映画だった!新学期とニースとタリスばっかり上映されててアタラント号ってなかなか見れな

 

 

ったのよねえ上映前音楽ジャンゴ・ラインハルト&ステファン・グラッベリーは、もうこれしかないー、という感じで★★

 

f:id:imagon:20190331082155j:imagef:id:imagon:20190331082203j:image

 

 

 ■  ベン・ウィートリー

      ハイ・ライズ(2015)

 

バラード原作 ハイ・ライズ
ストリーミングで途中まで、原作は1975年、イギリスタワーマンションはSFという括りでは有、現在Jタワマンは空き部屋地獄に突入という流れで、別の意味でディストピア化がすすむ予定、セレブらのだらしない着衣ファックやチェーンスモーキングとか見てて楽しい 

 

 

ハイ・ライズ 観了 ブニュエルのエクスターミネーター、、皆殺しの天使みたくロジカルな不条理感の演出が一切なく、インフラ停止でカオスなタワマン内部でのオージー(乱痴気騒ぎ)に合わせたノリイケな作りになっていたのが残念といえば残念、、洗練の果ての野蛮さは飼い犬の肉を食うことに着地

 

 

f:id:imagon:20190331082222j:image

 

 

 ■ジャン=リュック・ゴダール

     勝手にしやがれ  (1959)

     気狂いピエロ(1964)

 

 

 

ゴダール2本立て、ひっさびさに勝手にしやがれ気狂いピエロ、どちらも寺尾次郎の新訳なんだろけど、ピエロの方がなんか違和感あったな、ラストのアルチュール・ランボー 地獄の季節

 

 

からの引用がすべてなんだけど、旧訳の[太陽が海に溶け込む]とはまったく逆の[太陽が海から遠のく]みたいな訳(正確には忘れた)だったな、???でどうなのか?

 

 

勝手にしやがれ のパトリシア(ジーン・せバーグ)がフォークナーの小説「野生の棕櫚」のラストを紹介するシーン[虚無か悲しみか、私は悲しみを選ぶ]という引用セリフがあり、そこからもうジーン・せバーグの1979の自殺のことを思い巡らせつつ、顔が痒かったりしたが、

 

 

ブラックパンサー公民権運動に接近しすぎて、FBIからマーク されたあげく…という美形女優にしてはハードにポリティカルな存在だったが、

 

 

だとしても、結果的、実存的に 悲しみを選んでしまったセバーグ(悲しみよこんにちは には先行して主演)と一方の虚無的で滑稽で楽観とも悲観ともつかないベルモンドのアンビギュイティー というか透明性 のコントラストの描写は今回見てまあまあベターな発見ではあった、、

 

 

まあ、なんとなくベルモンドーゴダール映画祭というベタフレームにしてはいろいろと発見があった、ピエロにしてはもう10回以上は映画館で観ているので見方が細かくなってくるのは当然だろう、ということで

 

 

晩期ベルモント主演(現在85歳)ではベストの ライオンと呼ばれた男(むかし映写していたヘミングウェイ的シネマ) をも1回見なおしたいところだ

 

 

しっかし、35mmフィルム上映→DCP上映に移行で気になるのは、むしろ映像の質より音声の質、ネガフィルム→4Kにレストアで画面は(おどろくべき、かつ不自然に)無傷なんだけど、音声の方はザリっとした音圧高いモノラル感が残る…このズレ自体は修復できないし、むしろ修復不可能性を強調

 

 

寝起きにまた気狂いピエロの残像が…今回はアンナ・カリーナの化粧の変化が目についた、ホントいろんなパターンのメイク試しているし、凡庸エレガンスから次第にクールに殺伐としてくる感じ…

 

 

今回は初の@早稲田松竹でしたが、むかし京都から遊びに来た時に高田馬場駅周辺にも名画座がもう1個あって、あまりの暑さに映画館入って涼んだ記憶が…ニューシネマパラダイスと浴室(原作ジャン・フィリップ・トゥーサンのアレ)だったんだけど、その映画館は潰れちゃったみたいす

 

 

f:id:imagon:20190331082453j:image

 

 

■      ジアード・クルスーム  

          セメントの記憶(2018)

 

セメントの記憶 @渋谷ユーロスペースサウンド(とくに低音の持続)が異常でこれは催眠術の一種なのではないか、と思うほど半睡状態がつづいた、、鉄鋼音、機械モーター音、などのアーティフィシャルなアンサンブルが突如カットアウトされ、微小ノイズのカケラに減衰させられるという音演出👊

 

 

カットアウト→小鳥の声チラチラという[人工/自然]な、ダサ弁証法ではなく、あくまでも現代戦争としての⭕️現代建築⟷現代破壊⭕️という機械/電子のパラダイム内での音設計に鬼気迫る危機音

 

 

映像面はやや写真集的リジッド/スタティックな構図のなかにシリア爆撃ズタズタ住宅街の瓦礫ユラユラカメラが導入される緩急多しの刺激設計、、とくにラスト2or3カットあたり、360度回転ショットon the roadがいつまでも続き、なんだこれゃ?状態、が、

 

 

それ、それ、そのカメラはコンクリートミキサー車のボディ?に取り付けらている!と気付いた時は異常驚愕、、全体的に悩める現代映画に対してのベストアンサーにしてベタークエスト、、結局人間が演技するのってダッセエんだよな、と思い知らされる、、クール中のクールなドキュドラマ80分 ★🌙

 

 

 

成金建築inドバイに集まる中東バブルセレブらの負の局面に漸近? そしてもはや東京ステーション・ギャラリーでの開催中のアルバア・アアルトなんぞに行ってもなんの刺激にもならないことをも思い知らされるでしょうこの映画を前にしては、、

 

 

 

東京高層建築のマテリア=セメント の運搬フローが主に秩父山岩盤ダイナマイト爆破→青梅街道(都心へ)&南武線(JR)→川崎、ベイエリア)への運搬ルート、、
青梅街道はセメント街道と呼ばれていたこともあったらしい

 

 

 

ギタリストin 秩父 の笹久保伸が 岩盤ダイナマイト爆破 for セメント採取のドキュメンタリーを撮ってると知っている(見てないけど)、、ちなみにセメントの記憶のファーストカットはこの岩盤のドローンショット

 

f:id:imagon:20190331084819j:imagef:id:imagon:20190331084823j:image