SOUL FORMATION 5

釘の攻撃をかわすペラッペラの布のために


短編映像と長編劇映画と音楽演奏とトークのイベント
ソウル・フォーメーション 5
@bless(東京調布市つつじが丘)
     ⇒ http://blessgaoka.com/schedule/live-detail.html?id=988045a6747bd4d8e6
2018年3月18日(にちようび) 17:00オープン17:30スタート 21:00終了予定

出演 のがみ、ゆうき、がんちゃん、伊藤武雄





あけっぴろげで、風通しよく、少しの緊張感があってもすぐにそれを忘れ、失敗してもかまわず、
むしろ失敗を受け入れるというきっかけからはじめる。

you tube の短い動画(「city life #39」「磁器と火山 予告編」)をプロジェクターで上映するこころみは今回がはじめて。
直接のWi-Fi経由ではなくダウンロードしたものを。
ワイルドレタスによる演奏はオリジナルはなし。響きと響きのからみあい。
映画は90分の劇映画でDVDのマスターディスクから。滑稽、しみじみ、道化、シリアス、忘れられた悪漢。
モチーフは成田三里塚の闘士大木よね。
イベントのあとは時間のゆるすかぎりだらだらしましょう。

死刑ノート






(以下は twitterより転送)







座間市の9人殺害事件。容疑者の両親は姿をく
らます。というニュース。犯罪者の親の逃亡はきわめて日本的、とそのむかし柄谷行人は指摘していた。(そのときは宮崎勤の事件をひきあいにだしていた)。




自分の子供が犯罪者になるかもしれない、という覚悟のうえで子供を産んだりはしないのである。通常は。しかしそういう覚悟は必要ないのか、といえばそうではない。





この子は犯罪者になるかもしれないという確率は常にないとはいえず、なので道徳倫理を含めた教育が義務的になされる。にもかかわらず、犯罪が生まれるのは法があらかじめ犯罪と非犯罪の境界をつくっていて、その先に極刑=国が犯罪者を殺してもいい ということが法的に守られているからである。





死刑のトリッキーなところは全員一致で悪=極刑と認めても、すぐに殺さずに時間的に遅延に遅延を重ねて最終的に殺すことにある。それは(情状酌量も含めて)(容疑者の)反省可能性を見込みながらも、しかし、死刑を先延ばしにすることによって逆に反省を遅らす、ことである。





というようなことをかつて造形作家の岡崎乾二郎がいっていたような気がするが、出典はまったくもって失念してしまった。






要するに死刑とは反省を遅らす道具としてのみ死刑たりえる。そういうものとして死刑は反復している。ので、ついに反省はなされないまま、死刑は次の犯罪を待つ。










新・映画ノート 4 ⚫ 2018・1



以下は2018年1月内にtwitterにおいて散発的に記述したメモの再録である。誤字脱字、その場のノリ、思いつきで書いたもの、も含めてそのままに再録しておく。なお、観賞作品が前後している箇所があるので注意されたい。


==============================



つぐみ 1990(原作は1989)。最初の30分。タイトルバックに15分もかけていて、これでもか(これみよがしに)と贅沢なクレーンショットとレールトラッキングが見れる。病弱もの日本シネマという系譜に入れてよいかと思うが牧瀬里穂の病的ヒステリーがダサ痛く見えるのは映画音楽のせい。




劇伴のパターンで同一フレーズ(テーマ)をこちょこちょアレンジ変えて流すのあるけど、全面的に叙情に回収しているの許せない(というか牧瀬里穂がかわいすぎなのでオッサン&少女が許す構図が不毛。)。CMあがりの市川準は映画に関して多くのことを知っているが映画音楽認識はいまいち。






別に闘病を見せたいわけじゃないと思うけど夭折の堀辰雄の「風立ちぬ」のパターンなのだ。これぞ日本文芸。お箱中のお箱中だった。今もか?それは知らん。




野性の証明 1978(森村誠一の原作は1977) 最初の30分観賞。山中ヘリコプター出現。自衛隊の飛行訓練があったり、田舎の村でゴードンルイスばりの鮮血スプラットな大量殺人があったり、沼から真っ赤な車が引き上げたり(これは保険金めあての殺人?)てんやわんや。







高倉健の寄ったスナックのホステス役が絵沢萠子だったり、薬師丸ひろ子(強引幼少期役)のツインテールが見れたり。冒頭、要素を分散的にぶちまけて、あとで(観客に)繋いでいってもらうめんどくさいパターンか?角川映画の気合いというか侠気がぷんぷん出ている日本製アメリカ映画だ。





あと、浅間山荘事件よろしく山小屋のなかで世界同時革命を拡声器で唱える革マル派(赤軍?)みたいなのも出てきたし、夜のアーケード商店街を派手に暴走する暴走族もでてきた。(ボスは舘ひろしか?)……30分見ただけなのに、なんがなんだかわからねえ…






あと地方有力者だけがあつまっているパーティで三國連太郎が中央集権批判(東京一局集中批判)をしていた。……ひとついえるのは高倉健以外はズーズー弁?





つぐみ は 京都に祇園会館という二番館があったころ、2本立てのうちの1本として見た。あの巨大なスクリーンと観客席。そしてガラガラにもほどがあるほどのガラガラぶり。見た当時は市川監督の BUSU が好きというよりも富田靖子がまあまあ好きで





その話は有名な「八百屋のお七」(好色五人女西鶴 のうち一人)を模したものだった。 恋仲に会いたい一心でもそれが叶わず、江戸の広範囲にわたって放火し捕まり、鈴ヶ森の処刑場(現在の大井競馬場の近く)で火刑に会ってしまう少女の話だ。




市川準岩井俊二犬童一心なんかが映画版・新日本浪漫派と手前勝手にカテゴライズしたくもなるが、本家の保田與重郎は (今のネトウヨが最悪だとして)最良のリアル右翼みたいなものでそれは後鳥羽院(新古今和歌集の編集者)が流刑の身にあった歌人、とかそんなところまで射程に入れて




ある種の理念を提示しているのだ。





数多ある「時代劇」の実体は知らないが、……何が言いたいのか……ようは日本にはパゾリーニがいないということ……


松井さん(松井良彦監督)とだいぶ以前に話したとき「おれはパゾリーニとかに影響受けている」と仰っていて、「そうかなあ。」と思ったことがある。たとえば「追悼のざわめき」におけるポエジー寺山修司のそれを薄めたものでありどちらかといえばストレートなリアリズムに寄っていると思うけどな。





しばらく「追悼のざわめき」について考えていたが、良いところはマイノリティの容態に踏み込んでいる(肉迫している)ところ。ダメなところは、それを薄められたポエジーに回収しているところ。か。美的昇華=ポエジー化という最初にして最後の次元があったんだと思うな。






富田靖子広瀬すず
牧瀬里穂市川実日子

の系譜はあると思うけど

和久井映見綾瀬はるか

は ない



しかし原監督(原一男)を交えて呑んで会話した時(みなみ会館の佐藤さんの計らい……全身小説家の頃)、監督は「つぎは富田靖子主演で劇映画撮ろうと思っている」と仰っていて、その顔が異様に深刻な表情だったのだけど、「え!劇映画すか!?」と返すしかないという…





こともあった。そして つぐみ 60分あたりまで。あのテーマ曲のリフレインにつぐリフレイン……呪いの音楽か。気を取り直しスーパーへ食材買いに行ったがいろいろ売り切れててうんざり。そしてレジに並んでいるオレの前のおばさんの籠に入っている生理用品が妙に存在感を放っていて目眩がしそう……






出かける用事もなく、実家の母親と連絡とっても「寒いから暖かくなってから帰ってきて」ということで、ダラダラ。……記憶障害研究所というところで「お父ちゃんを殺さないでけれ!」という薬師丸ひろ子(予知能力がある)のセリフで停止ボタン。60分くらい。野性の証明 けっこう面白いな。




リンゴの皮をむく高倉健。いいショットだ。




空間の処理の仕方とかけっこう面白い。高倉ー薬師丸の父娘の住んでいる家の部屋内部とか、家が家であることの安定性ではなく、常に危機にさらされている中間的中継的な場所として空間がある、と思わせる撮り方。あえてバシッと決めない撮り方ゲシュタルトしにくい撮り方つうか



つぐみ 観了。 ひとえに病人というが病気の多様性があり、しかし映画の中では病名が最後まであきらかにされず、見ているぶんには(今で言う)アスベルガー(ひらたくいえば発達障害)に近いものとして描かれているように思えた。 牧瀬の「熱出すとハイになる」というセリフは、理性と非理性の往復





を生きていてそれを肯定している、ということになり、その肯定ぶりが物語を駆動させていたんだけど、最後にそういう甘ちゃんな自己を反省する=大人になる という落ち着き方(手紙文明で知らされる)はどうか…結局ふつうの大人になること礼賛…ということか。




中島朋子はずっと下品な顔(下唇より上唇が1.3倍大きい)してて牧瀬を上回る田舎のビッチとして演出することは不可能だったのか。原作読まずに好き勝手言ってるけど。




都市→田舎という距離を利用したナラティヴなんだけど、まあ田舎の度合いがなさすぎるし、やっぱり真田広之が海岸で不良にからまれボコボコにされるシーンもうちっと寄りで撮った方がいいんじゃねーのか。



市川準特有のCM的手法の脚本で、まずマーケティングありき。そんで消費層のターゲット設定してその上で「やっていいのはここからここまで」という縛りがあったんだろなあ。そういうところは一貫していて、破綻のなさにおいて安心して見れる。そういう無罪&無害な映画だった。







公開時90年代初頭ならともかく今見る価値はまったくなし。白島靖子が激美人に撮られてて(というか全編ソフトフォーカスのフィルターで雰囲気づくり意図的にされてんだけど)、 彼女出ていた櫻の園(中原俊監督)見直したくなった。




長い!野性の証明 観了。長いのは罪だ。箔つけに延ばしてるだけか! 1時間40分あたりでサッと切り上げればどれほどいい映画だったことか。高倉健は最高にいいんだけど、梅宮辰夫がウザい。東北の山中でダイナマイト爆破とか、まあいいんだけどバンバンやられてもインパクト逆に薄くなるんだよな。





作り話=騙すこと なんだからそこに留めておけばいいのに、自衛隊兵器(特に戦車)を見せたいばっかりに余計なことしすぎ。バタイユ的に「兵器=使い道のない否定性」が商業映画にスピンオフされて、蕩尽につぐ蕩尽。それだけのことを大衆は鵜呑みにして「すげえなあ」となる。




それで尺延ばししてせっかくの内容をだいなしにしているように思えてならない。1時間40分あたりまではたいへんいい映画だった。あまりにも製作サイドの享楽ぶりが目立っているといえばそれまでだが、唯一舘ひろしを可愛がるヤクザ(大場総業)のボス三國連太郎だけがいちばんマジメな人のように思え





た。サヴァイバリズム、ヤクザの武装主義、金権政治、ジャーナリズムの腐敗、擬似親子愛における真実の愛、記憶喪失と恐怖体験、などモチーフは多岐にわたりその過剰さこそがある種の「奥行き」に通じていてかなりこみいったシナリオ。が前半の説明不足さが嘘のようにまとまってくるのが不思議だった。




まあしょせんは作り話なんだからどんどん作っていいんだけど、男のドンパチ趣味=アメリカンコンプレックスをどうにかしたいと角川春樹がもがきにもがいた映画だと思う。で、この映画ですでに薬師丸は機関銃を持っているのだ。そういうシーンがあるのだった。2018年今も見る価値はあります。





薬師丸ひろ子は絵が上手いのだが、たまに不気味な絵を描くので医者に見てもらってはどうか、と担任の先生(十朱幸代?)が高倉健に説得するシーン。



殿山泰司が画面に出てくるとホッとするのはやっぱり彼は癒し系ですか?




つぐみ で書き忘れだけど、シーン繋ぎでクロースアップ→クロースアップで繋いでいるところが2箇所あってあれはどういう意図で?効果にもなっていないんだけど。






ラストは大人は判ってくれない (トリュフォー) ばりの 顔面ストップモーション(電話中の牧瀬)で、そこでのセリフが(中島に向けられた)「ブス!」。締まらないエンドだったが、クロースアップ繋ぎとなんか関係あるのかな、と。ないよな。意図不明。






============================








新・映画ノート 1 ⚫2017・12





以下は2017年12月内にtwitterにおいて散発的に記述したメモの再録である。誤字脱字、その場のノリ、思いつきで書いたもの、も含めてそのままに再録しておく。なお、観賞作品が前後している箇所があるので注意されたい。


==============================




午前中、鑑賞。緋牡丹博徒 鉄火場列伝(1969)。笠原和夫+鈴木則文のシナリオ。前半見せた小作争議のネタはどこへ?逸脱に逸脱を重ねて尺合わせ?…結果盛り込みすぎの感。東映京都のセット撮影もキッチュすぎ。丁寧なカット割りのわりには筋運びの面白さはなし。まーまーこんなものか。



また東映もん。河内のオッサンの唄 (1976 )を途中まで。先行するのはミス花子の同名ヒット曲で河内弁の二人称「ワレ」を全国的に知らしめた。(しかも地元市民団体から抗議)。のっけからフルスロットル展開で中でもラッタッタ(初期原チャリ)に跨いだ夏純子のロングショットがグッときたり。




そしてミヤコ蝶々が六升という大酒飲みの役で出てくるんやけど、この人の声を聴いてるとなぜかホっとする。佇まいがいいのよね。



ある安定した場所に第三者が割り込む。そこで発せられる「お前は誰だ?」。しかし問題となっているのはたんなる身元証明(お竜さんだと矢野家直属という帰属性)ではない。



もっと曖昧でしかももっと直接的な表現「お前は渡世人か、それとも堅気か?」という問いなのだ。「お竜さん」には渡世人か、堅気か?堅気か?渡世人か?という問いが頻繁に出てくる。
しかももっと重要なのは「オレは堅気に戻った……だが……」という後悔の形式であり、その次にやってくる情動、「……渡世人の血が騒ぐ……」なのである。





この(実は込み入った情動としての)「……だが、渡世人の血が騒ぐ……」こそが物語を駆動させる中心的なモーターとなっているのであり、この《だが》がとても重要なのだ。映像、音響、つまり映画全体もこの《だが》をめぐって組織化されていると言ってよい。




よくあることだ。オレは先生になった……だが……。オレは日刊ゲンダイを読み続けている……だが……。私は新しいコートを買って初詣に備えるべきだ……だけど……。etc etc。



構造主義的代入性。または形式的シナリオの量産作法。オレは先生になった……だが、渡世人の血が騒ぐ。オレは日刊ゲンダイを読み続けている……だが、渡世人の血が騒ぐ。私はコートを購入して初詣に備えるべきだ……だけど渡世人の血が騒ぐ。etcetc






新・映画ノート 2 ⚫2017・12







⚫河内のオッサンの唄。続きあれこれ思うがフレーム内平均15人くらいのシーンがやたらに多く、しかも派手目のアクションが必ず起こる、そこでカット割りだが、これが卒なくされている。何が言いたいかというとフレーム内2,3人はまだ繋ぎやすいし、一方200人,300人のモブシーンも繋ぎやすい

⚫15人あたりは大変繋ぎにくいのではないかと。わんさわんさと展開し、中心をしめる怒声とシバキ(シバキ音)が突出していて、しっとり見せるための編集ではないことは確か。カット単位が短くその内部でカラフルな差し色、奇天烈なファッションが視覚的に突き刺さり、一方でシバキ音が耳に突き刺さる。

⚫河内コミュニティの長(超越者)だったミヤコ蝶々が死んでからの後半が完全に見世物ヤクザ暴力スペクタクルグルーブの様相を呈し、やや残念。でも織田作的な大阪庶民もんとの差異は歴然とある。川谷拓三が終始かぶっているサンバイザー。たまにマルコム・マクラレンに見えたり……。

⚫一番好きなシーンはミヤコ蝶々のノラ飲み(セット内撮影)。小学生が遠足で持っていくような水筒(柄がはっきり見えないの残念!)に酒を入れ、三輪車の椅子に座ってグビ。男もんのゴツイ腕時計。ちゃめちゃめお茶目。東京もんがなにゆーとんねんじゃかーしわ。これにグッとくる&ハッとする。

⚫反ファストファッション的ファッショニスタが見るのええんではないでしょうか。あと「ワレ」二人称がたまに「オンドレ」に変化し、それが三人称になると「オンドレラ」になるのです。シンデレラみたいですね。なんつって。

⚫うぉんちゅ〜♪でかつてお馴染みだった スローなブギにしてくれ 1981 を途中まで。じつは初見。画格、フレームワークは好み。少々ガサツなトラッキングショット、的を得ていないズーミングは時代のものか。「死の棘」と同じキャメラマンだった。

⚫基地内部、基地周辺、下町、という非日本映画的ロケーション。古尾谷雅人が初期の吉野家でバイトしていてその内装を見るだけでも楽しい。浅野温子はあまり好みの顔ではないが、子猫のおかげでチャーミングさは⬆

⚫スローなブギにしてくれ 観了。三角関係が長引いた末、関係そのものが崩壊。海のラストシーンは見事だった。し、水平運動と垂直運動のバランスが見事に計算されていたことが了解された。

⚫ヴィークル(乗り物)の扱い方も周到だ。ムスタング(USA)、400ccのHONDA(japan)、に始まり、電車を少し挟んで自転車(当時流行っていたランドナーだ!)で締めくくられる。

⚫他殺と自殺の境界あやういムスタングの海への飛び込み事故とそれを持ち上げるクレーンは最後の巨大な垂直運動であり、ここで映画の景色がガラっと変わる。

⚫さち乃(浅野温子)の強姦事件は蛇足のように思えたが、まだファミリーロマンスの残る米軍ハウスで、家族的共同体を完全崩壊へ向かわせるような破壊衝動をともなったパフォーマンスを見せるには必要だったのだろう。と。

⚫少し長いような気がしたが、拍手もんのいい映画だった。室田日出男(何年か前逝去)はいい役者だな。そんで原作にも手を出してみたい。

⚫似てるビートルズの「オー!ダーリン」は少しもいい曲だと思わないがこれはいい曲に思える。中森明菜のヴァージョンは薄口のあっさり目(つうか、アンニュイ度が強い)で聴きやすい。

⚫もいっこ冒頭に出てくる「性病予防週間は終わったか」という記事の文字とそれを読んでいた宮里がその直後ジョギング中に死んでしまうことと、彼と同居相手の山崎努演ずる「ムスタング」の半裸体、特に白いブリーフ白いソックスをふくむ映像はホモセクシュアルの暗喩なのかと言えばそうではない、のか


というところも気になった

犬神家の一族 1976 [原作は1972] 途中まで。 監督は市川崑でこれも初見。あのカッコつけた(よく言えばスタイリッシュ)(まあ当時は新鮮だったんだろけど)(でもなぜか見てるのしんどくなる)編集についてあれこれ思うが、息継ぎの「ない」編集の仕方なんだよな。

⚫比較するのもなんだが、ゴダール的編集は「トン・ツー・トト・・ツー」とか、間に「・・」という息継ぎの間みたいなものがあって、これが独特のかっこよさと心地よさが混交したモンタージュになっている。一方の


市川編集はショット継ぎ目が「ツツツツー・トト」的なものが多く(予告編に顕著)本人はノリノリで「かっこえーー!」てなってるんだろけど、ゴダールのとは似て非なる。似てなくもないか 。


ややこしい言い方だけど、ショット継ぎ目(=編集継ぎ目)の瞬間にショット内部眼球運動的ファクターを持ってくる。それが市川編集。ショットの要素が編集従属的になってしまい、対象の自律性がいったん損なわれる。わかりにくいかな。


(訂正) 瞬間→瞬間の近傍


フィリップ・ガレルが 死の棘 を誉めていたというのをどこかで読んで妙に納得するものがあった ガレル的静謐さ ヒリヒリとした 痛苦が刻まれた感じの


犬神家の一族 つづき。性悪女、梅子演ずる草笛光子の髪のボサボサ加減、だらしない着つけが素晴らしい。それは鬼婆風の高峰三枝子とのコントラストなんだけど。


犬神家の一族 つづき。 裸体死体の撮り方は上手いというかそれが即物的でありすぎてむしろキッチュ(というか滑稽)。このあたりの横溝趣味。花壇のなかに突然裸体(小説 花園の悪魔)。菊人形の頭だけ生首(本作)というセンスに諧謔性をかんじたりもする。


主題は 遺産相続=いったい誰が得をするのか それに血眼必死 というブルジョワジーへの皮肉で、まあブニュエル的だというのもヤボだけど、やはり高峰三枝子草笛光子のヒステリックな演技がすばらしい。女たちは金欲まみれ、そこには男たちの愛欲まみれという背景がありながらも


佐清(スケキヨ)のマスクの下に隠された太平洋戦争のむごたらしい傷痕の表象が一気に状況を「金=現象」からそれを形而上学的(メタフィジカル)にする。














新・映画ノート 3 ⚫2017・12





ベタな日本映画をテキトーに見直す会 みたいになっているが、砂の器。これ新聞に連載されたのが1960-61で映画化が1974。この間のブランク13年がまずミステリー。最初の企画の立ち上げはいつだったのだろう。シナリオは橋本忍(99歳で存命)に加えて山田洋次


食べ物撮す、ビール瓶撮すという後期小津経由の松竹伝統が受け継がれている。デジタルリマスターなのか、画像発色、音響が良すぎてやや違和感を感じる。とくに建物内部の会話のエコー、床に響く靴音のエコーには、耳を疑うばかりの存在感がある。


犬神家の一族 に出ていた美人女優 島田陽子が銀座のホステス役で出てくる。丹波哲郎演技上手く相棒の森田健作はどうしても大根になる。


途中までだが、横溝正史は乱歩直系の作家であり、松本清張は硬派ジャーナリズムでやっぱりあんまり俗っぽくない。どっちがいいってわけでもない。


犬神家の一族 観了。 ライティングの細やかさに気づく。犬神家の屋敷が相当に広く、なので人物配置時に、前景中景後景できあがってしまう場合が多い。だいたい暗め照明で顔姿を浮き立たせなおも三景をちゃんと見せるということ


これへの全うとした配慮が伺えた。スポット照明の発明はテクニカルにサスペンス&ホラーを支えてきたとは思うが、教科書的にこの映画が良いサンプルとなりうると思われた。


放浪の孤児が成金になる(成り上がる)には罌粟(ケシ……麻薬の原料)の栽培が必要だったわけでなおかつ軍隊による罌粟の需要がなければなかった。という意味で「すべての戦争はすでに阿片戦争」なのだが、国家が有力神社を守るという背景に罌粟栽培を制度的に押し付けていた、という仮説は


成立しないのだろうか。……むかし読んだ大木幸介の「麻薬・脳・文明」なんかで触れられていたように記憶するが文明の発祥と麻薬が切っても切れないのであれば、戦争で使用されるクスリ(鎮痛剤代わりの医療用大麻)と神社の儀式で使用される大麻になんの差があるのだろうか。


砂の器 途中まで。おそらくこの時点ではもっとも画面登場率が高い丹波哲郎のネクタイの締め方、それはだらしなく緩められていたり、キチンと締められているのですが、それをちゃんと見るように促されているように感じます。


島田陽子はまさにハマり役かもしれない。加藤剛演じる陰険な感じの作曲家の愛人(というよりも浮気相手)役。、幸不幸を天秤にかける稚拙な発言を加藤の車内でぶちかましたあと、車から逃走。大樹をゲンコツでしばき、やつあたり、憎悪を剥き出しにしたのち、踏み切りの前で倒れ、加藤の子を流産。


正確にはタクシーを拾うのではなく、拾われて、病院へ。そこで死亡。……これとは直接関係ないが、ウィキペディア島田陽子記述に目を通したがひどい書かれ方をしている。内田裕也か……悪い男に捕まったな……。


「奥さん……何かその時、変わったことはありませんでしたか?」必ず出現するのは他者の証言=言語である。「そうねえ。あの日はたしかクリスマス・イブの夜で…わたしついつい飲みすぎちゃって途中で暑くなって部屋を出て……」「それで?」「コンビニに行ったんです…。」「え!コンビニ?」


「そうです。」「近所のコンビニだと、ファミリーマートですね。」「そうです。」「じゃあ、一致するな……。」「何と?何と一致するんですか?」「いやね、奥さん……。あの時間、つまり22時くらいですかね、あなたをファミリーマート〇〇店で見かけたって人がいるんですよ。」「そ、そうですか。」


このような証言=他者の言語の洗い出しがあってはじめて事件=出来事の輪郭が整えられる。事件は空間軸時間軸を「他者の証言」を参照しつつ与えられ事件の結晶を確定してゆく。一方でたんなる「出来事=事件」を「特別な」「犯罪」とみなす警察学とともに事件を論理空間に押し込めてゆくのだ。


警察学の警、つまり「言うを敬う」ところに「他者の言語」のステイタスが内属されている。「言ってもらわなければ困る」のである。……「奥さん、事件の究明に協力してくださいよ。」……「けど……」「どんなことでもいいんです。覚えていることなら。」……「はあ……。」などなど


雨だ…考える…「事件についてなにか知りませんか」…証言とは主体と他者のにらみあいから出てくるものではなく、法の力能の所産である。法は上からの押さえ込みであり秩序の安定を保証しようとする。しかし、法はもっとも垂直的な言語表現で、犯罪と非犯罪の境界をつくる。


法の言語とわれわれのパロール(発話)が一致するのは(ペアとなるのは)この次元においてである。パロールは無軌道で、気まぐれで、とりとめないものだが〈事件〉の名のもとで、法のリジッドな論理空間に一気に放り込まれるのだ。


砂の器 9割くらい。コンサートで演奏する加藤剛、同時に行われる幼少期の回想。加藤を追い詰める事件捜査。トリプル・パラレル(並行)・モンタージュ。回想シーンは柳田國男の 山の人生を想起しちゃうな。田舎風情を撮っているのではなく田舎のリアルだ。少年の演技がまた素晴らしい。誰だ


砂の器 観了。ひとつ強調しておくことがあるならば、日付、時刻をしっかりセリフ―声として扱っている、そして住所、も最後の番地まで同様にセリフとして扱っている。これだ。すべては法のもとでおこっているという息苦しさをあえて(一見無駄に)見せることによって成立している非表象の表象。


被害、加害などを概念包括した法‐形式による裁きの一切、それは当事者の出生地、出生時刻に必ずかかわっているということ。完全なフィクションであってもそこに忠実であることが、逆に「放浪の孤児」という超少数な具体に迫れるということだ。


ここの入れ込みは清張にあって横溝にはないのではなかろうか。


ややメタから見れば、作者にとって作品が真実なのか、作者が真実なのか、という二元論的実存の問いを作曲家の加藤はひきづっていてそこが物語を駆動させているんだけど、エンディングではハンセン氏病(癩病)は……云々のテロップが出て、そこはズレすぎてんじゃないかと。













日本語使用人が、ある長いと思われる単語を短くしたがることの本意についてのメモとして









⚫検索語においては名詞(もっとも精製された記号)が支配的であり、ゆえに、それが続くかぎり、あらかじめ確保された述語界の圧倒的なさらなる量化(反精製)が計られる。この述語空間はフロイトの言うesに対応しつづけ、永遠に到達できない、その到達できなさにすでに到達していると見なされる。


⚫日本語に 平仮名 片仮名 漢字の 三種のカテゴリがあるのは、意味伝達の合理性を捉えるうえでは「遅延」を生むばかりだろう。これはたとえば英語圏において英語(日本語のように三種の文字表象が適用されているのではなくアルファベット一種のみ)が使用されているのを考えた場合、明瞭である。


日本人(日本語使用人)は文字表象の読み取りにおいて、平仮名、片仮名、漢字を知覚しそのうえで意味の把持をしているのだが、その際に確認できるのは、量的に漢字が少なく、平仮名が多いという事実である。

⚫もちろん片仮名が多用されている文もあるので一概にその順列はつけがたいが 、無意識的に平仮名、片仮名を「地」に、漢字を「図」にして文を読んでいると捉えることもできるだろう。












にもかかわらず、眼差されなかったもの





まなざされたまなざしそれ自体はすでにしてゴミであります。(まなざしが〈そちら〉へ向けられているにもかかわらず〈そこ〉へ到達できなかったまなざしそれ自体はゴミであります)。まなざされたまなざしではないなにか、それは視線の着地を促しています。というのも眼差しには生きた眼差しとそうではない、生き生きとは決してしていないまなざしがあるからです。生き生きとしていないまなざしは決して死んでいるのではなく、ある方向を持っているが「待っている」だけであり、そこには欠如の充実があります。


目を向けた、しかし、にもかかわらずまなざされなかったものは残余でさえないものでありますが、純然たる無というわけではありません。人は見たいものを見るというその愚かさにも似た無意識に抵抗することができません。たとえ観察者にとってもそうなのです。


〇〇を見に行った、にもかかわらず、まなざされなかったもの。




新・映画ノート について






まなざしは、網膜的な行為の結果生まれるものですが、待っているまなざしのゴミとしての視線の蓄積から再出発することもできます。



写真に飛びつくということがあり、それが活動的、あなたが写真家という活動的な狩猟家であるかぎり、写真は活動写真、つまり映画のそばにいることができます。カルチェ・ブレッソンによれば写真において、写真をいままさに撮ろうとしている主体において逃げさるのはイマージュであり、逃げ去ったイマージュは、もう2度と元には戻りません。完全なる欠落、欠如として、また再構築されるべき像の足場(ここでわたしは建築の比喩を使う)としてわれわれの目の前にたちはだかるのです。追い求められたイマージュはそうでない置き去りにされた前イマージュそのものの足場を固めてゆきます。



東宝と松竹の2つの磁場からはやや離れいている時代の産物、緋牡丹博徒 鉄火場列伝 を一気にではなく何回かに分けて、次に 河内弁の全国波及に貢献したものの、地元の人々の抗議にあったという 河内のオッサンの唄、これも何回かにわけて、全共闘の運動が挫折して無風状態になった時点であらたに若者を魅了した片岡義男の小説原作を持つ角川映画の スローなブギにしてくれ、これも数回にわけて、江戸川乱歩の直系にあたると思われる横溝正史の原作小説を持つ 犬神家の一族、を何回かにわけて、そして個人的には高校の映画鑑賞会で観て以来、それがまずまず興味深い作品であったにもかかわらず、すっかり忘れていた、松本清張の小説原作を持つ 砂の器



12月は、これらの映画を自室において観たわけですが、いくつか重要なポイントだけに絞り言葉を組み立てて







今日は雅斗とヨッシーの日だった

ピンク色のビックのライター。府中にできたルシーニュの最上階(飲食街)にある喫煙ルームにて雅斗。ハーレーダヴィッドソンに詳しそうなヨッシー。パーシー・アドロン監督『バグダッド・カフェ』に出てくる黄色いポットを用意しておるヨッシー

ワイヤレスのキーボード

いま、8インチのタブレットとワイヤレスのキーボードをつないでキーを打っているが
あまりよろしくない。なれるのに少し時間がかかりそうだ。キーがあまりにも小さく両手が真ん中によりすぎてそのため肩身が狭くなる。画面に出現する文字も小さく見えにくいので猫背になる。