制作日誌 2017 ・5・22 より

今日から新作長編映画の制作日誌をつけます。

後で読み返して流れを把握できたり それを
スタッフやキャストと共有できるような仕掛けも作っておけば便利かな。

午前中 ロバート・フュースト監督 パメラ・フランクリン主演の 『女子大生・恐怖のサイクリングバカンス』(原題は and soon darkness)。映画とボブカットの親和性はルイーズ・ブルックスの椿姫から確証済みだが、これもボブカット映画の偉大な美的達成だ。首筋から上半身下半身まで至る曲線美。髪の艶の変化。(髪に照明をあてるという演出)。フォトジェニックでありながらもシネマジェニック。フレームは四角。山田五十鈴とパメラ・フランクリンの顔輪郭はフレームへの収まりがとても良い。

あと 音楽で、車のエンジン音が鳴ったあと、それをリズム部に使用した音楽が流れていたかもしれん シーンがあった。

午後からガストでモンタージュの研究。30代頭に考えていたことを思いだしながら。新作長編のとっかかりになる動機づけがまだ浅い。脚本はまだ一文字も書いておらずあらたなモンタージュの可能性を追及したうえでしか書けない。

モンタージュ研究はcity life に反映させよう。


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否定性

肯定的連続平面からの跳躍 否定の度合いが生まれる
否定するには少し勇気がいる 
否定は肯定よりも 対象を持ちやすい

行為そのものの度合いが強い
「私は/そうは/思わない」「それは/ちがう」
文意は同一だが 主語を廃棄する柔軟性が求められる

キャンプ関係 思想メモ

■ 411 2017

 

1⚫アウトドアキャンプ(野宿も含む)の恒常化による 定住―遊牧 の二元論の解体
2⚫非建築の建築物(バッキー・フラーから遊牧民のティピーまで参照可)による前衛生活
3⚫ 発電システム(携帯ソーラー、自転車のハブによる自家発電)の制作技術のシェア

 

 

ドゥボール、ルフェーブル、を通じて
エリゼ・ルクリュをコアの思想的基盤に。一方でヘンリー・ソローを実践知に結びつけ、最後にフーリエ的な社会的共同体生活からロビンソン・クルーソー的な冒険主義を経つつもアナーキテクチュア(アナーキズムのアーキテクチュア)を反復するべし。

Randonneur from channel zero  #10

  
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Randonneur from channel zero はこれで最後になる。とくにもう書くこともないが、新しいマシンを手にいれ、それを使いこなしてゆくと身体の変容感覚がある、ということだけを最後に強調しておきたい。

いくつかの経過があった。まず、速度を追及するならロードなど乗らず、車(オープンカー)で高速を暴走した方がはるかに快楽的だろう。(BGMはもちろんモーツァルトのレクイエム まちがえてもマーラーをかけてはならない)。

なのでロードを必死にこいでスピードを追及するなんてのは、愚かしいばかりか、はた迷惑なだけなのでやめてほしいものだ。

その点、ランドナーニュートラルな存在であり、もともと休暇の多いヨーロッパで自転車旅行用に設計されたものなので、速度と耐久力をほどよく兼ね備えたものなのだ。ランドナーは存在自体が柔軟なのである。

競輪選手じゃあるまいし 必死にチャリを漕ぐなんてのは競争原理(無理強いの男性原理)に踊らされている、としかいいようがない。

サイクリングはダサい、自由闊達なポタリング(散走)こそが見透しのよいものとなる。

それではここで、チャリ好きの小説家といえばこの人をおいて他にはないだろう、アルフレッド・ジャリの『超男性』から一節引いておきたいところだが、お湯が沸いたようだ。それでは!















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Randonneur from channel zero  #9

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ナイトライダー・モア・ザン・ファイト。 このスローガンは硬直した力というよりも、しなやかな動き、しなりのある変化をこそ志向する。速度とは男が恋い焦がれてやまないものだが(われわれ男はなぜかくもテクノロジーを愛するのか…ポール・ヴィリリオ と通低しているだろう)その恋が破れてもなお、成就してもなお、われわれ男は、何度でも速度を求め 、求めなおすのだ。それは惑星間に発生する物理的諸関係の帰結としての万有引力というギヴン…与えられた条件、のもとで、そして地球の自転と公転のあいだにおいて引き裂かれたx空間に動的亀裂をいれつづける、というリニアリティの実現に他ならない。


例えばやわらかい豆腐の表面張力から一気に亀裂を入れ、その張力を無効にするグレイヴィティ、またはナイフの一閃。手のひらで崩れ落ちる完璧なキューブであったはずの、豆腐の崩壊。それはネガティブな意味での崩壊(カタストロフィ)ではなく、むしろ柔軟で、しなりのあることの勝利、変幻自在であることの勝利なのだ。地球物理のうえで展開されるヴィークルの走行とは、そのような〈非硬直性―やわらかさ―適量強度〉を手にしながらどこまでもトレイルすることなのだ。ソフトマシーン。超男性。










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Randonneur from channel zero ♯8











ナイトライディング、ナイトポタリング、そしてナイトクラッビング。数日前ランドナーで渋谷まで出た。たっぷりヘッドライトの充電をし、たっぷりと着込み、たっぷり金を持って。京都の友人BODILが渋谷のWOMBというラブホテル街にある(それは円山町のことだ)クラブでライブ・パフォーマンスをやるとの連絡をその前日にくれた。


住んでいる東つつじヶ丘から喜多見、 成城、三軒茶屋経由で渋谷まで出る。夜の世田谷通り。派手な坂道がある。砧公園のそばを通るあたりで地名としては大蔵か。坂道を下った最低地には仙川が通っていて下まで降りたらただちに登る格好になっている。見事なv字谷だ。


地形とは物理の法則に則ったカタチのことで、 坂の形成、つまり凹凸の形成とは、川の流れの持続がもたらしている。川の流れが土地をじわじわと削ってゆく。雨が流れ込み、土が崩落し、さらに土地は低くなる。海とは低くなりすぎた土地のことで、万有引力という宇宙物理の絶対的ルールを表現している。



一方の電車、特に高架を走る電車とは土地の高低をショートカットし、ホリゾンタルに延長線を伸ばせるシステマティックな表現でもある。ヴァーティカルな関係を 極限的にミニマムにすることによって、移動距離を最小値にもってゆく。これが電車である。



電車では地形の面白さは体感できない。チャリは地形の面白さを体感する最適解である。徒歩では遅すぎる。自動車、バイクのオートマティスムは麻痺させる。



BODILのライブパフォーマンス、中国のテクノDJについては次回か……あるいはいつか記述しようかと思う、テキーラトニックのライムの残香とともに。ここまで。










Randonneur from channel zero ♯7 



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Accoustic はアコースティックではなくアクースティックが正しい発音のようです。ランドナーによる初春ポタリングとアクースティック・サウンドの相性が絶妙すぎて、高校のときそれなりに一部で流行っていたネオ・アコースティックというジャンルの音楽を聴きなおして、喜悦にひたりがちな日々。お金がなくて買えなかったアルバムも、グーグルプレイミュージックで漁りに漁っています。みんなネオアコネオアコと呼んでましたが ネオアコは海外では通用しません。ネオアコは日本のレコード屋さんが販売戦略のためにつけた呼称。でもそんなこととは関係なくネオ・アクースティックには素晴らしい曲がたくさんあります。(ちなみにギターポップ渋谷系とはちがいます)。ギターの音色はエレキよりも透明感のあるアクースティックな方が好きなのですが、リッケンバッカーやグレッチなどサウンドホールのあるセミ・アクースティックギターのサウンドはもっと好きかもしれません。


ネオ・アクースティックには死にそうなくらい好きすぎる曲があって you tube動画 でその曲のギターのカヴァーをしてらっしゃる方がいます。バックに原曲をかけながら、というパターンもありますが完全ヴォーカル抜きの、カラオケ的なパターンもあって、同じ曲だけどいろいろなテイストのアレンジがあり、かなり楽しめます。


と、今日はここまで。





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Randonneur from channel zero ♯6





指のサイズ、とくに指の腹のサイズとキーボードのそれがあっていないとタイピングがうまくいかない。別のノートブックで慣れたタイピングは個々のキー間の幅を指自体が覚えている。水平、垂直、斜めとどれもこれもなめらかに動いていた指はあたらしい軽量のBluetooth対応のキーボードにうつしかえたとたんまごつきはじめる。こういったことは慣れるのに多少の時間を要する。テクノロジーはそれに見合った身体を要求し身体がそれに適応できない、適応しえない場合、身体性は余計に強調される。身体は愚鈍なのだ、と機械は教える。ウェアラブルという観念、考え方とはべつに、物体の軽量化はある考え方のもとで(ポータビリティ)で推進される。それでもなおうっとうしい身体は永久につきまとう。構造主義者(とくにアルチュセール)ポスト構造主義者(とくにドゥルーズ)はそういったうっとうしい身体にとくに敏感だったように思う。軽さが要求される。ゆえに重さは強調される。