Randonneur from channel zero  #10

  
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Randonneur from channel zero はこれで最後になる。とくにもう書くこともないが、新しいマシンを手にいれ、それを使いこなしてゆくと身体の変容感覚がある、ということだけを最後に強調しておきたい。

いくつかの経過があった。まず、速度を追及するならロードなど乗らず、車(オープンカー)で高速を暴走した方がはるかに快楽的だろう。(BGMはもちろんモーツァルトのレクイエム まちがえてもマーラーをかけてはならない)。

なのでロードを必死にこいでスピードを追及するなんてのは、愚かしいばかりか、はた迷惑なだけなのでやめてほしいものだ。

その点、ランドナーニュートラルな存在であり、もともと休暇の多いヨーロッパで自転車旅行用に設計されたものなので、速度と耐久力をほどよく兼ね備えたものなのだ。ランドナーは存在自体が柔軟なのである。

競輪選手じゃあるまいし 必死にチャリを漕ぐなんてのは競争原理(無理強いの男性原理)に踊らされている、としかいいようがない。

サイクリングはダサい、自由闊達なポタリング(散走)こそが見透しのよいものとなる。

それではここで、チャリ好きの小説家といえばこの人をおいて他にはないだろう、アルフレッド・ジャリの『超男性』から一節引いておきたいところだが、お湯が沸いたようだ。それでは!















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Randonneur from channel zero  #9

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ナイトライダー・モア・ザン・ファイト。 このスローガンは硬直した力というよりも、しなやかな動き、しなりのある変化をこそ志向する。速度とは男が恋い焦がれてやまないものだが(われわれ男はなぜかくもテクノロジーを愛するのか…ポール・ヴィリリオ と通低しているだろう)その恋が破れてもなお、成就してもなお、われわれ男は、何度でも速度を求め 、求めなおすのだ。それは惑星間に発生する物理的諸関係の帰結としての万有引力というギヴン…与えられた条件、のもとで、そして地球の自転と公転のあいだにおいて引き裂かれたx空間に動的亀裂をいれつづける、というリニアリティの実現に他ならない。


例えばやわらかい豆腐の表面張力から一気に亀裂を入れ、その張力を無効にするグレイヴィティ、またはナイフの一閃。手のひらで崩れ落ちる完璧なキューブであったはずの、豆腐の崩壊。それはネガティブな意味での崩壊(カタストロフィ)ではなく、むしろ柔軟で、しなりのあることの勝利、変幻自在であることの勝利なのだ。地球物理のうえで展開されるヴィークルの走行とは、そのような〈非硬直性―やわらかさ―適量強度〉を手にしながらどこまでもトレイルすることなのだ。ソフトマシーン。超男性。










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Randonneur from channel zero ♯8











ナイトライディング、ナイトポタリング、そしてナイトクラッビング。数日前ランドナーで渋谷まで出た。たっぷりヘッドライトの充電をし、たっぷりと着込み、たっぷり金を持って。京都の友人BODILが渋谷のWOMBというラブホテル街にある(それは円山町のことだ)クラブでライブ・パフォーマンスをやるとの連絡をその前日にくれた。


住んでいる東つつじヶ丘から喜多見、 成城、三軒茶屋経由で渋谷まで出る。夜の世田谷通り。派手な坂道がある。砧公園のそばを通るあたりで地名としては大蔵か。坂道を下った最低地には仙川が通っていて下まで降りたらただちに登る格好になっている。見事なv字谷だ。


地形とは物理の法則に則ったカタチのことで、 坂の形成、つまり凹凸の形成とは、川の流れの持続がもたらしている。川の流れが土地をじわじわと削ってゆく。雨が流れ込み、土が崩落し、さらに土地は低くなる。海とは低くなりすぎた土地のことで、万有引力という宇宙物理の絶対的ルールを表現している。



一方の電車、特に高架を走る電車とは土地の高低をショートカットし、ホリゾンタルに延長線を伸ばせるシステマティックな表現でもある。ヴァーティカルな関係を 極限的にミニマムにすることによって、移動距離を最小値にもってゆく。これが電車である。



電車では地形の面白さは体感できない。チャリは地形の面白さを体感する最適解である。徒歩では遅すぎる。自動車、バイクのオートマティスムは麻痺させる。



BODILのライブパフォーマンス、中国のテクノDJについては次回か……あるいはいつか記述しようかと思う、テキーラトニックのライムの残香とともに。ここまで。










Randonneur from channel zero ♯7 



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Accoustic はアコースティックではなくアクースティックが正しい発音のようです。ランドナーによる初春ポタリングとアクースティック・サウンドの相性が絶妙すぎて、高校のときそれなりに一部で流行っていたネオ・アコースティックというジャンルの音楽を聴きなおして、喜悦にひたりがちな日々。お金がなくて買えなかったアルバムも、グーグルプレイミュージックで漁りに漁っています。みんなネオアコネオアコと呼んでましたが ネオアコは海外では通用しません。ネオアコは日本のレコード屋さんが販売戦略のためにつけた呼称。でもそんなこととは関係なくネオ・アクースティックには素晴らしい曲がたくさんあります。(ちなみにギターポップ渋谷系とはちがいます)。ギターの音色はエレキよりも透明感のあるアクースティックな方が好きなのですが、リッケンバッカーやグレッチなどサウンドホールのあるセミ・アクースティックギターのサウンドはもっと好きかもしれません。


ネオ・アクースティックには死にそうなくらい好きすぎる曲があって you tube動画 でその曲のギターのカヴァーをしてらっしゃる方がいます。バックに原曲をかけながら、というパターンもありますが完全ヴォーカル抜きの、カラオケ的なパターンもあって、同じ曲だけどいろいろなテイストのアレンジがあり、かなり楽しめます。


と、今日はここまで。





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Randonneur from channel zero ♯6





指のサイズ、とくに指の腹のサイズとキーボードのそれがあっていないとタイピングがうまくいかない。別のノートブックで慣れたタイピングは個々のキー間の幅を指自体が覚えている。水平、垂直、斜めとどれもこれもなめらかに動いていた指はあたらしい軽量のBluetooth対応のキーボードにうつしかえたとたんまごつきはじめる。こういったことは慣れるのに多少の時間を要する。テクノロジーはそれに見合った身体を要求し身体がそれに適応できない、適応しえない場合、身体性は余計に強調される。身体は愚鈍なのだ、と機械は教える。ウェアラブルという観念、考え方とはべつに、物体の軽量化はある考え方のもとで(ポータビリティ)で推進される。それでもなおうっとうしい身体は永久につきまとう。構造主義者(とくにアルチュセール)ポスト構造主義者(とくにドゥルーズ)はそういったうっとうしい身体にとくに敏感だったように思う。軽さが要求される。ゆえに重さは強調される。













Randonneur from channel zero #5





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明るい午後、ランドナーあるいはスポルティーフでのポタリングがつづく。チャリのよさはいろいろあるが、まずは下り坂。この快楽は上り坂と対になっているのはむろんいうまでもない。風を感じるなんてベタな言い方はやめておこう、風を感じる暇もないほどに快楽に身を委ねること、それがチャリの至上の在り方なのだ。チャリは存在しない、それゆえに存在する。ここには身の危険(死の欲動ではない!)があり、身体を大気に向かって剥き出しにしている mateliarism がある。フレームを剥き出しにした、 そして ストラクチャー structure を剥き出しにした ランドナー 、ロード 、クロス、 シクロクロス 、ミニベロ、 ママチャリ、 などを含む チャリという 強度を ほどよくたたえた物質は マテリアリストにこそふさわしいのである 。決してハコモノにならないこと。…それに カーヴ、カーブではなく カーヴ。あの 剥き出しの構造体は 曲線をたたえたcurved flatness に相応しいのは言うまでもない。 b と v は水と油ほどの違いがある 。カーヴを曲がる、ここには自動車 がなしえない車体を斜めにする 動体 が展開される。なぜなら道はすでに曲がっているからだ 。ここにオルタナティブがある 。ここに国土交通省 または 国土地理院と呼ばれる、ネーションステート nation state の 性質、その秘密の一つがある。










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Randonneur from channel zero  #4

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あたたかい光、黄色かオレンジで、少し灰色がまじっててもいい(たぶんまじっていないだろう)が、 暖かい光というものはいいものだ。 波打つ光線、 ウェイヴ、ライト、プリズムのリズム。 そして光はまず曲面だということができる。 光は直線的だと思われているが実はそうではない。 それは写真(光学装置)におけるハレーションの光の粒が証明している。この光の粒々はもちろん嫌いじゃない。付け加えると、 光には曲面がある、というよりも曲面を通過している。なのであらゆるレンズというレンズは曲面加工してあるのだ。きっと、そう。 と 、今そういう事が頭をよぎって思わず書いてしまったが、本当はオランダ産のフリスクというガムともキャンディーともいえない、しかしどちらかといえばキャンディーに近い、そんなフリスクを口に入れていて、冷気が体を刺すばかりなのだ。















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Randonneur from channel zero  #3

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モノクロームセットというバンドユニットに〈ルーリング・クラス〉という曲があり、以前ラジオ(残念ながらなんの番組かは忘れた)で、聴いたことがあり、そんなにいい曲だとも思えなかったが、ルーリング・クラスという語だけはなぜか克明に覚えている。覚えているので今思いだし、思い出したついでに書いているまでのことだけどクラスとは階級のことで、そしてルーリングがruleを動名詞化したものとして、規則づける、とか規則化するという意味だとしたら、まさにそういう階級がある、そういう階級をこの曲は方向性としてもっている、ということになる。階級と規則は概念的に相性が良い。良すぎてヤバい。モノクロームセットというバンド名は訳してみると奇妙なもので白黒集合だとすると、なんのことだかピンとこない。と、話をずらす。そういえば今日はたいへん寒い日だったが昼頃に新作のアイデアを口外してしまった。気詰まりな沈黙を避けようと話し出すことは、いい場合もあるし悪い場合もあるし、たいていはいい方に転がるのだが、これからゆっくり時間をかけて暖めるべきアイデアはなるべく懐にしっかりしまっておくほうが良い。 大切に保存して いっこのひび割れも 1g のホコリも避けたいフレッシュなアイデア。ちょっと気詰まりな沈黙を避けたいがために口にするだけで、みるみるうちにアイデアの外皮が剥がれ落ちていく。1回ひねること、つつしみ。















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Randonneur from channel zero  #2










さて、キーボード上のK I O K U の配列は隣りあっているといったが要するにそれらはご近所さんというところだ。よくみたまえ、UとIとOが横に並んでいてKのキーはIの右下にある。こういった単語は別にもあるだろう。たったいまキーボードを眺めていて気づいたが OMIKUJI も隣りあっている。Mが最下部で支えているというスタイルだがOMIKUJI は当たり前に〈おみくじ〉に変換できる。こういった単語はキーの近接性を確保しスピードを予め孕んでいる。すごく打ちやすいのでそれらの単語には短距離走で疾走するような快感がある。とまあ他愛ないことを書いているが、他に書くことがないわけではない。ポタリングから帰宅して、タブレットで1950年代の日本映画を見て、つまらないので消し、なんとなくノートブックを開けたのだ。それにしてもポタリングというのは最高の言葉だ。ポタリングという発音体系がまず軽さを獲得している。軽さ、浮遊感、コロコロと転がる感じ。ここには一切の苦痛がない。僕はポタリングという語をランドナーに乗るようになってから覚えたが、いい出会いだったと思っている。話はつづくが20代の頃はとくにファクシミリという響きが好きだった。最初の3つ〈ファク〉から始まる語なんてのはファクシミリ、ファクター、ファクトリー、ファクト、どれも素晴らしい響きを持っている。これが〈ファック〉になるととたんに苦しくなる。ファックという語はいつも苦し紛れなのだ。だが、小さなツ、つまり〈ッ〉が抜け落ちただけのファクという響き、それもポタとよく似た(よく似ているが決して同じではない)軽さ、そして渋さをも獲得している。こういった単語のよさは主観的な趣味以上のものではないが、なかなか意識にのぼることはないだろう。さて、書きすぎたか。













Randonneur from channel zero ♯1







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それはそうと、ワープロのキーボードを目の前にするとなんとなくキーを叩いてしまうものだ…けど、それはギターをさっと持った時に必ず〈このコード〉を弾いてしまうことと同じだろう。僕は16歳の時からDmというコードを弾くようにしていたが数年前おそらく2010年あたりからはEになった。Eの方がおさえるのが楽だというその点において。(ちなみにピアノを弾く人も同じような手癖があるようだが、包丁を持った時に必ず○○を切る、なんてことはない)。そうそう、ワープロを目の前にして指がキーに触れたがる。モノとはだいたいそういうもので触る目的がなくてもなんとなく触ってしまうものなんだ。そういうわけで僕はこれから何かを書こうとしていることは確かなんだが、何を書きたいのかはあまりはっきりしていない。おっと横道に逸れた。そうそう、この文章は〈それはそうと〉で始まっているが(ほんの10分前あたりにキーをパンチした)実のところノートパソコンの蓋を開け電源を入れ、画面が立ち上がり、テキストファイルを開け電子の白紙が出現したその数秒後、僕は〈きおく〉と入力しそれを〈記憶〉に変換したのだった。なぜ〈きおく〉なのか、その理由ははっきりしている。とにかくKIOKUのキーはすべて隣接していてKIOKUが一個の塊、ゾーンになっているのだ。だから打ちやすいし打つのに時間がかからない。パッと一気に打てる。〈記憶〉という語や意味は嫌いじゃない。好きでもないが、とにかく嫌いじゃない。そして〈記憶〉という語にはどこか独特のカッコよさがある。キラキラと光る銀色がだんだんとドス黒くなってゆく覚悟(どんな覚悟だ?)を抱えている。なんせ億の世界だから数えられるものじゃない。百鬼なんてのは数えられる、万引きも数えられる、だけど記憶はなんせ億だから数えることができない。だから記すのだ。さて、〈それはそうと〉ではじめたこの文章も、だいたい文字が埋まってきた。もう書きはじめてから20分も経っただろうか。









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